初級翻訳・山彦乙女 第12話

山彦乙女

本当に残念でなりませんよ」
「半之助さまも、ご一緒にお出かけに?」
彼女はきらりと光る目で、半之助のほうを振り返った。直接名前を呼ぶなんて行儀が悪いよ、彼は何も言わずにうなずいた。
佐枝はあきらかにムッとしたようだった。
けれど負けず嫌いな性格で、そんな悔しそうな顔を見せるなんて自分の負けだと思ったのだろう。
「また逃げるのね」と笑いながらじろりと睨み、「法事の日のように……隠したってダメよ、ちゃんとわかっているんだから」
「きびしいなあ」
主馬は苦笑いして、あえて言い訳はしなかった。
母親がそばから、何か目配せをしていた。
おそらく、お前だけは残れ、ということなのだろう、半之助は冷たい態度で、佐枝が出ていくとすぐに席を立った。
外はまだ太陽が照りつけて暑かった。
「自信満々って感じだな」
扇子で日差しを避けながら、主馬がそう言って、ちょっと言葉を詰まらせた。
「あの人はすっかり裸にして、体の内側までひっくり返して調べたとしても、恥ずかしさとか気まずさなんて感情はかけらもない、って感じのタイプだな」
それから笑いながら、「でも悪くないね、ああいう女性は夫に出世をもたらすよ、家の切り盛りもうまいだろうし、客あしらいもうまいだろうし、上役なんかを手玉にとるのは得意だろうしね」
「気に入ったなら青山の嫁にするといいさ」
半之助はやり返した。
「おれは聞くだけでもお腹いっぱいだよ」
虎ノ門の外の通りで駕籠を拾い、汐留の橋から木挽町へ出て、築地のほうへ向かった。
まさか山村座ってわけではまいだろう。
こう思いながら、半之助はふと、ついこのあいだ見た、茶屋での出来事を思い出した。
さきほど主馬が、――あの人を裸にして。
と言った言葉が、頭に残っていたせいかもしれない。
肌着一枚も着ていない、つやつやとした、柔らかそうな裸の体、三人の若者に、平然と体中の汗を拭かせていた姿。
それはもう記憶がはっきりしなくて、形をなしていなくて、胸や太ももなどは、ひどくむき出しで、なまめかしかったように思えるのだけれど、さてどんなふうだったかと想像すると、まるで捉えどころがなく、ゆらめく白い霧のように、まとまりがつかなかった。
「これが新しくできた橋だ」
前の駕籠から主馬が叫んだ。
尾張藩の屋敷の前を、堀に沿って、東へ行き当たったところである。
そこは山村座に近いので、ときどき歩き回ったことがあった。
たしかに行き止まりだったが、今はがっちりとした、新しい橋が架かっていた。
駕籠は本願寺の門前をまっすぐに進み、紀州家の下屋敷へ突き当たり、そこを左に曲がって、築地の河岸へ出た。
満潮らしい様子で、海にはふくらむような波があり、沖のほうから、舟が、帆を下ろしながら、しきりに上って来るのが見えた。
潮の香りが強く匂ってきた。
主馬の声で駕籠が止まった。
外に出ると、草履の下で乾いた貝殻の音がして、息が詰まるほど海の匂いがする、新鮮でさわやかな空気が、胸いっぱい、しみとおるように感じられた。
「今日は静かだな」
こうつぶやきながら、主馬は先頭に立って横丁へ曲がっていった。
河岸に面して、軒の低い、古くて雨風にさらされた、小さな家が並び、半分壊れかけた舟が陸に上げられていたり、干し網が垂れ下がっていたりした。
もちろん漁師たちの家だろうが、どの家の前にも、一坪ほどの土を盛った囲いの中に、松葉牡丹や、鳳仙花や、名前の知らない草花が、イキイキと咲いていた。
横丁に入ろうとしたとき、半之助は、後ろで変な叫び声を聞いた。
「――ほっ、ほう……」
誰かを呼んでいるらしい、清らかでつやのある、よく通る、若い女の声だった。
「――ほっ、ほう……」
カッコウの鳴き声のようにも聞こえた。
振り返ってみたが、河岸の日向で子どもたちが遊んでいるほかには、それらしい女の姿など見当たらなかった。
ただ、その岸のほうに小さな舟の入り江があり、いま入ってきたらしく、帆を下ろしている小舟が見えた。
おそらくその舟の中で、漁師の娘か奥さんが叫んだのだろう、仲間同士の呼び声かもしれない。
半之助そう思って、主馬の後を追いかけた。
そこはどうやら裏口のようだった。
細い横丁を十間(約18メートル)ほど進むと、黒い板塀の上に覆い被さるようにびっしり生い茂った木々があり、塀の一部に、小さな掛け行燈を出した、しゃれた木戸がついていた。
「ここだよ」
主馬はその木戸を、慣れた身のこなしでくぐり抜けた。
半之助は、行燈に「丸茂」と書いてあるのを見た。

四

「まだ建ててからそんなに経っていないな」
座敷へ通されるとすぐに、あたりを見回しながら半之助が言った。
「せいぜい一年ってところだな」
主馬はそう言って、どこかへ歩いていった。
必要以上に木々の多い庭も、凝った趣味の建物も、まだとても新しい。
家は二階建てで、木材はすべてヒノキだろう、磨き込まれたツヤも美しいし、まだかなり強く木の香りが漂っている。
雲母摺り(きらずり)の本間の襖には、秋草があしらわれた、虫取りをする美人の絵が描いてあって、四枚続きの、線がたっぷりとした、しなやかな筆づかいだが、よく見ると、菱川師宣という町絵師の名前が書いてあった。床の間にも、遊女らしい美人の、湯あがりだと思われる姿の掛け軸がかかっていたが、こちらは皮肉なことに、狩野英信(かのうひでのぶ)という署名があった。
英信は木挽町に住む、いわゆる御殿絵師で、狩野派のなかでも格別に腕がいいと評判の高い人物だ。
きっと冗談半分で描いたのだろうが、そんなちょっと俗っぽい絵のうえに、平気で自分の名前を書き、おまけに遊印まで押しているのは、なんだか反抗的で、見ていると思わずクスッと笑ってしまうような面白さがあった。
半之助は、こうした室内のしつらえをあちこち見まわしているうちに、柱や長押(なげし)にある釘隠しの金具に、ふと目を奪われた。
それは鉄か青銅のような金属でできていて、菱(ひし)の形を三つ合わせたようなデザインをしていた。
――なんだっけ、これ。
どこかで見たことがあるような気がして一生懸命考えてみたが、すぐにわかりそうでいて、どうしても思い出せない。
――たしかに、見覚えはあるんだけれど。
ぼんやりとそんなことを考えていたとき、庭の方から、さっき聞いた「ほっほう」という奇妙な叫び声が再び聞こえてきた。
「ほうほう、ほっ……」
まるで竹の筒を通り抜けてくるような、いままで一度も聞いたことのない、不思議な響きの声だった。
庭の木々は、傾いてきた西日を浴びて、暗いほどに葉を茂らせて枝を交わし合っている。
建物の前の小さな庭(前坪)はきれいに掃除された土でできていて、飛び石が木の生い茂る方へと続いているだけで、やはり人の姿は見当たらない。
叫び声はそれきりパタリと止んだ。
半之助は扇子をパタパタと使いながら、夕暮れに染まりゆく空を見上げていた。
すると、突然、心地よい弦の音とともに、「ひゅっ」と矢羽根が空を切る鋭い音が響き、庭の木々の梢あたりから、鳥のすさまじい悲鳴が聞こえてきた。
――あの声が、射止められたんだ。
半之助は一瞬、そう感じた。
もちろん、本当はそんなはずがない。

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