「くにから権之丞がまいったと、お取次ぎ下さい」
番小屋には小者が二人いたが、その片方が不審そうな、咎めるような眼つきで、じろじろと風態を眺めたのち、
「どなたに、どういう用件で、取次ぐのか」
「くにから権之丞がまいったと申せば、わかる筈でございます、早飛脚で手紙がさしあげてあるのですから」
こう云いかけて、権之丞という男は、ふと気がついたらしく、「ああこれは、御無礼を申上げました、お取次ぎを願いたいのは、比女さまでございます」
そのときは、門番のほうでも、申しつかっていたことに、気づいたようすで、恐縮そうに出て来て門をあけた。
「甘利からおいでですな」低い声でそう囁き、「私どもは丸茂家の者でございまして、失礼を致しました、どうぞお通り下さい」
そしてもう一人の小者が、案内に立った。
露路ふうの、敷石みちが、植込のあいだをゆるやかに曲って、数寄屋造りの家の前へと、続いている。
その家の玄関の左手に、網代の袖垣があり、そこに一人の若者が、柴折戸をあけて待っていた。
番小屋から、来訪者を知らせる、なにかの仕掛けがあるのだろう、寸の詰った浅黄色の、麻の肩衣と袴をつけたその若者は、権之丞に向って、膝の下まで手をさげ、
「大夫さま」こう云って、二度、低頭した。
権之丞は黙って頷いただけであるが、その日にやけた、眉の濃い、小さな顔にあらわれた表情も、若者の挨拶のしようも、殆んどいかめしいくらい、格式ばったものにみえた。
三人をひきついで、番小屋へ戻った小者は、同僚に向って、疑わしげに囁いた。
「百姓のじじいみたようだが、いやに威厳があるじゃないか、ここの女あるじの正躰もわからないし、いったい甘利なんという処は、どこらへんにあるのかな」
「見ず聞かず云わず」
同僚が肩をすくめて答えた。
「わかってるだろう、なにごとも見ず、聞かず、云わずだよ」
旅装を解いた権之丞は、すぐ風呂舎へ案内された。
彼は始終ふきげんな顔つきで、家のようすを点検するように眺め、頭を振ったり、眉をしかめたりした。
すべてが、いかにも気にいらぬ、といったふうであった。
そこは半之助たちがはいったのとは、場所も造りも違っていた。
むろん硝子の吊り灯りもない、平凡な据え風呂で、いつかの女などでなく、この家の若者が背をながしに出た。
権之丞はみかけに似ず、筋肉のひき緊った、逞しいみごとな躰格で、左の脇腹に大きな傷痕があった。
背をながしにかかった若者は、「これがあの猪の牙の痕でございますか」
こう云って、つくづくと見いった。
権之丞の顔は、一瞬なごやかにゆるんだ。
「和助などは知っておるまい」
「まだ乳を飲んでおりましたそうで、しかし話はずいぶん詳しく聞いております」
「でたらめばかりだ」
「さようでございましょうか」
和助という若者は少しばかり不服そうに、「鋳物師谷の隠居は、その場にいて拝見したと申しております、仔牛ほどもある大猪で、危なく殿さまが牙にかかるところを」
「でたらめだ、危なかったのはこのおれだ」
権之丞は傷痕へ手をやった。
「殿さまが鉄炮で仕止めて下さったが、さもなければ、そのときおれは、ずたずたに裂き殺されるところだった」
「さようでございましょうか」
和助の口ぶりは、明らかに、信じられぬ、という調子であった。
だが、そういうとき、しいて反問することは、相手のきげんを損ずる、と承知しているらしい。
ややしばらく背を洗ってから、
「――早く山へ帰りとうございます」と独り言のように云った。
権之丞はまた黙りこんだ。
むっとした表情で、風呂舎から出ると、持参の古びた帷子に、そまつな葛布の袴をつけ、茶を啜る暇も惜しいというふうに、「比女さまに、すぐおめどおりが願いたい、と申上げて呉れ」
こうせきたてた。取次ぎの者は、「ちょっと休んで待っていてくださいね」という返事を持って戻ってきました。
「ただいま、大切なお客さまがいらっしゃいますので」
権之丞はイライラした様子で、お茶のかわりに何か飲み物を持ってくるよう命じました。
若い者たちが一人ずつ、交代で挨拶にやって来ました。
挨拶といっても、彼らは廊下にペタリと平伏して「大夫さま」と一言だけ言い、こちら側は「吉兵衛か」とか「武次か」と、ただ名前を呼ぶだけです。
それは決まった形式の作法らしいのですが、その簡単な呼びかけには、普通の武家に見られるようなよそおいが無く、素朴な温かみがこもっていました。
「もう一度、行って聞いてきてくれ」
権之丞はしばらくすると、そうせかしました。
今度もまた、待てということでした。
そして三度目には、大事な話をしていますので、知らせるまでは取次ぎできません、と言われました。
すると権之丞は、「客は武家か?」と聞き、立ちあがりました。
「よろしい、無理にでもお目通りをお願いしよう、案内してくれ」
そう言うと、スタスタと廊下に出ていってしまいました。
二
そこは、母屋から渡り廊下でつながった別棟の建物で、床が高く、広い縁側には手すりがめぐらされ、戸や窓なども見え、軒先には青銅の灯籠がつり下げられていました。
これは泉殿(いずみどの)風の造りで、当時は門を建てるだけでも厳格な身分の規則があったため、正式な手続きから言えば、建築の法律に触れるようなものでした。
縁側へ上がると、書院窓のある十畳ほどの座敷で、障子をあけ放したまま、女あるじの登世(とせ)が一人の侍と向かい合って話をしていました。
まわりには巻物や、紙、筆や硯などが広げられており、その侍(それは谷町の安倍冲左衛門だったのですが)が何かを書き写しているようでした。
女あるじは、髪型も、衣装もとても地味で、一見すると老けて見えますが、年は二十一、二歳くらいでしょう。
あごのあたりがふっくらとしていて、ちょっと天平時代の仏像に似た、気品のあふれる顔立ちです。
そして、上唇のわきにかなり目立つホクロがあり、それが全体の美しさをいっそう引き立てていましたが、その美しさには、どこか世間の道徳から外れたような妖しさが感じられるのでした。
権之丞は縁側に座り、
「比女さま、権之丞がお目通りをお願いいたします!」
と、かなり大きな声で言いました。
二人はその声で初めて気づいたようです。
冲左衛門は少し慌てて、書き写していた巻物をさっと隠し、登世は怒りの目を向けながら振り返りました。
「許可するまで来てはならないと言ったはずです」
「仰せは承りました。ですが、先ほど早飛脚で申し上げましたとおり、一刻も猶予ならない重要な用事がございます。殿さまの名代としてやってまいりましたのです」
そう言って、権之丞は冲左衛門をじろっと睨みつけました。
「どうかお目通りをお許しください」
その言葉づかいにも、毅然とした態度にも、絶対にあとへは引かないという強い決意が十分に表れていました。
冲左衛門は筆を置き、
「では今日はこれまでにして、また明日にでも参ることにしよう」
こう言って、帰り支度を始めました。
権之丞はそれを冷ややかな目で見ていました。
登世も諦めたのか、広げていたものを片づけ、冲左衛門を渡り廊下の入り口まで見送りました。
「お入りなさい」
戻ってきた登世はそう言って、自分は上座に座りました。
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