初級翻訳・山彦乙女 第31話

山彦乙女

なにとってもそれが初めての恋で、二人ともおとなしく、引っ込み思案な性格だったものだから、表立っては決して出しませんでしたが、お互いに心の中ではすっかりと突き詰めた深い仲になっていたらしいのです。
そんなところに、いよいよ獄から戻ってくる亭主は、人を斬ったりするような荒々しい男で、次に何をしでかすか分かったものではありません。
かといって、お母さんや弟や妹、寝たきりのお父さんや小さな子供たちをすべて置き去りにして、二人きりだけでどこかへ逃げ出すほどの勇気は、彼らにはありませんでした。
「結局のところ、そうするよりほかに道がなかったんだろうな。僕たちがみんなであの結婚を祝ってやった日から、ほんの二、三日しか経っていないというのに、潮が満ちてくるころを見計らって、裏手にある三十間堀(さんじゅっけんぼり)へ身を投げたそうだよ」
そう言って、重兵衛は大きな欠伸(あくび)を一つしました。
「亡くなった死体をひき取りに来た母親も、隙を見つけて後を追って身を投げようとしたっていう話だけどさ……。まぁ、なもその板前の男もそうなんだけど、貧しい人間というやつは、どうしてこう生きることに対して我慢強さがないんだろうね、すぐに参ってしまって死を選んでしまうのには本当にびっくりさせられるよ」
彼はまもなくすうすうと眠りにつきましたが、半之助はなかなか寝むることができませんでした。
板葺(いたぶ)きの屋根をぽつりぽつりと叩く雨の音を聞きながら、かなり長い間、じっと天井を見つめていました。
正木重兵衛は、朝ご飯を食べてから、少しおしゃべりをして帰っていきました。
「またちょうどいい機会を見つけて遊びに来るよ。ただし、すっきりと秋晴れになってからだけどね」
「無理をしてまで来ることはないさ」
「無理にでも来るよ。今度は松室(まつむろ)も連れてやってくるからさ、そのときには一つ、松茸(まつたけ)のお汁といっしょに栗ご飯でもごちそうさせてもらうとしようか」
それからというもの、なんとなく気持ちが沈んでしまう日が続きました。
雨は一瞬たりとも止む気配がなく、外へ出かけることもできません。かといって村野が相手では、特に弾むようなおしゃべりのネタもありませんでした。
そのうえ、心中してしまったなをのことが、いつまでも頭から離れず心にしみついていて、ふとした瞬間に、思わず眉をしかめてしまうほど胸が痛むのでした。
あの日のなからは、あんなにも陽気で、嬉しそうで、まるで別人のようにはしゃいでいました。
半之助に声をかけられて、男のことを聞かれたときには、
――あら、ごめんなさい。
と、すっかり手放しでのろけたりしながら、顔を真っ赤に染めていました。
あのときは本当に心から幸福そうに見えたのに、今になって振り返ってみれば、あれは死ぬ覚悟をしっかりと決めた人間が見せる、あまりにも悲しい絶望の仮面だったのです。
「――可哀そうに……」
半之助は何度も何度も、そっとそう呟きました。
六月の集まりのとき、なには何か思いつめたような顔をして、「実は誰にも言えない相談したいことがあるのです」と言いました。
あのときすでに、亭主が出獄してくるということを知っていたに違いありません。
けれど、結局それを言葉にして打ち明けることはできませんでした。
病気で寝たきりのお父さん、四人の弟や妹、そして半之助の夢にも思い及ばなかったことですが、な自分自身の子供さえいたというのです。
お母さんが女の身でありながら大変な人夫仕事をして、なをの稼ぎと合わせ合わせで、どうにかやっとの生活をやりくりしていた。
そんな過酷な日々のなかで、やっと愛する人と出会うことができた。
「あの人は本当に温和しくて、いい人なんです」となには言いましたが、おそらくそれは嘘偽りのない本当のことだったのでしょう。
二人が結ばれて、たとえ貧しさは抜け出せなくとも、温かくつつましい家庭を築いて暮らすことができたかもしれない。
しかし、そこへあの恐ろしい亭主が牢屋から戻ってくることになってしまった。
「――可哀そうに……」
その知らせを聞いたときの、なをの、そしてあの板前の男の、あまりの絶望と途方に暮れたありさまが、半之助の目にはありありと見えるようでした。
――だが本当に可哀そうなのは、なをたちだけに限るのだろうか。
半之助はまた、そんなふうにも考えました。
仮に、なをたちにほんのもう少しの勇気があって、家族をすべて捨て去り、その男と連れ立ってどこか遠くへ逃げたとしましょう。
新しい結婚生活は、はじめのうちは二人をこの上なく幸福にしてくれるかもしれません。
しかしそれはほんの短い期間のことにすぎません。決して逃れることのできない、厳しく過酷な生活のくびき(重荷)のなかでは、どんなに深い愛情だって少しずつ傷つかずにはいられませんし、お互いに相手の存在にうんざりして飽きてしまうほうが、もっと早いかもしれないのです。
男はいつか、なをの暗い過去に悩まされ続けることでしょう。また、彼女のために自分の大切な一生を誤ってしまったという思いから、いつしかなをを憎むようになってはいないでしょうか。
……そしてなではなでで、自分が捨ててきた家族のことを思い出し、自分のせいで不幸になった者たちのために自分自身を呪い、そして一緒に逃げたはずの男を心の底から恨むようになってはいないでしょうか。――やがて子供が生まれ、終わりなく追いかけられる毎日の生活に疲れ果てて、「いっそあのとき、死んでしまえばよかった」と思う瞬間がきっとやって来る。いつか必ず、そうなるに決まっている。

半之助は、町の一般の人々がどのように暮らしているのか、その実際の生活までは詳しく知らなかった。
けれども、そこで起こる日々の胸が締め付けられるような悲しい出来事や、嘘やずるさ、欲の深さ、ずる賢さのために、いつも押し潰され、踏みにじられている、無知な人々の切なさは、もううんざりするほど見聞きしていた。
それは自分の身の回りでもまったく同じだった。
武士の世界でも、形こそ少し違いますが、権力や名誉をめぐる醜い争いが絶えず、大多数の身分の低い者たちは、武士としての最低限の体面を保つことだけにすら、必死になって苦しんでいた。
――いったい何のために生きているのだろう。
身近な人たちが、ただ毎日をあくせくと、その日暮らしに追われている姿を見るたびに、半之助は思わず声を漏らしてしまいそうなくらいに、こう強く思った。
――あんなふうに生きていて、何が楽しいのだろう。これから先、どうするつもりなのだろう。
権力や名誉や物欲のために、恥をかなぐり捨てて走り回り、必死になって卑怯な手口を使う人たちにも、彼は同じ質問をぶつけてみたかった。
――それで本当に満足ですか。その富や名誉や権力は、あなたを心から幸せにしていますか。「これは失敗だった」「こんなはずじゃなかった」と後悔するようなことはありませんか。

どこかが根本的に狂っている。
これは、人間が本来あるべき姿ではない。
どこかで進むべき道を間違えて、とんでもないところへ来てしまったのだ。
今の社会が抱えている矛盾や、人間らしさを失った多くの問題は、もうやり直すこともできないし、おさえることもできない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました