初級翻訳・山彦乙女 第37話

山彦乙女

「荷駄は通してよい、静まれ!」
その声は驚くほどよく通った。
お互いに殺意を込めて刀を抜き合い、まさに激しい戦いが始まろうかという、まさにその一番危ういタイミングだった。
平四郎の声に応じるように、駕籠の前に立っていた登世もまた、手にした小さな扇をパタパタと振りながら、必死に皆の動きを制止した。「次高さん、おやめなさい」
そこに、菱屋庄兵衛が、弓に二の矢をつがえたまま、静かに馬を進めてやって来た(馬の口は下郎に引かせていた)。
平四郎は両手を大きく上げ、声を張り上げて叫んだ。
「心配ない、通してよろしい!」
「どうしたんだ、いったいどういうつもりだ次高」
「なに、もういいんだ」
来太は庄兵衛にすばやくうなずいてみせると、まわりのみんなに手を振って合図し、平四郎のもとへと歩み寄った。
「たしかに通していいんだな?」
「疑う必要はない」
「それならどうして……」と言いかけたが、来太は地面にツバを吐きかけ、刀の血ぬぐいで刃を拭うと、こう吐き捨てた。
「――まったく、ばかばかしい人騒がせなことだ! どうせ通すなら、こんな無駄な手間をかけさせなければいいものを。おい、みんな行くぞ!」
関所の役人や千人同心の者たちは、すでに道の脇へと片寄っていた。
登世は鋭い眼つきで平四郎の顔をじっと見つめていたが、来太が戻ってくると、彼に素早く何かをささやき、再び駕籠の中へと戻っていった。
その時、関所の建物の裏手で、山鳩がのどかに鳴く声が聞こえてきた。
それはまるで、一触即発の危機という一瞬が無事に収まったことを祝福するかのような、この上なくのどかな鳴き声だったが、おそらくその場にいた誰も、それに気留めていなかったことだろう。
柳沢家の一行は西の木戸の外へと出て、荷駄の出発準備を整え、登世の乗った駕籠も再びかつぎ上げられた。
来太は小橋与力のところへと歩み寄り、
「この先の関所で必要になるから、同心を一人、証人として連れて行くぞ」
と言った。
小橋甚兵衛は平四郎のほうを見た。
平四郎は静かにうなずいた。
そこで与力は部下の若い同心の一人に、彼らと同行するように命じた。
菱屋庄兵衛は、弓に矢をつがえたまま次高来太と一緒に最後まで木戸口に残っていたが、やがて彼らも荷駄の後を追うようにして去っていった。
それを見届けると、杉戸口のほうから青山主馬が姿を現した。
「どうするんですか村田さん、まさかあのまま見逃して、あんな連中を好き勝手に通しちまうつもりじゃないでしょうね」
「――それほかにどうしろと言うんだ」
「どうするって、だってあんなにたくさんの鉄砲を押さえたんですよ!」
「冗談じゃない」平四郎はニィッと微笑んだ。
「鉄砲の五十や百よりも、もっとすばらしい獲物があったじゃないか」
「へえ……? ちょっとわかりませんね、いったい何ですか」
「あの女だよ」
主馬はまだピンとこないというふうに首をかしげながら言った。
「あの女って……あれは築地の丸茂にいたやつでしょう、柳沢一派の秘密の隠れ家になっていた……」
「それだけではないはずだ。彼女は相当な額の金をばらまき、柳沢の父親とも何やら話し合いをしているはずだ」
「――なるほど」
「――なるほど、で済む話じゃない。その女が江戸を抜け出して来たんだぞ。さっき青山が言っていたような緊迫した情勢の中で、あの連中と一緒に、あんなに大量の荷駄を抱え、しかも今のあの居直ったような態度を見れば、彼女が再び江戸へ帰るつもりなどないのは明らかだ」
「まあ、そうでしょうねえ」
「それなら、いったいどこへ行くというんだ? 彼らと一緒に甲府城へ入るのか? おそらくそうではないだろう。もちろん城側と何らかの連絡はあるだろうが、どこかほかに自分たち自身の拠点を持っているんじゃないのか?」
そこまで聞いて、主馬は「はっ」と声を上げた。
「すると……もしかするとあれが……!」
「そう見なしても不自然ではないだろう」
「不自然どころの話ですか! そこに気づかなかった自分のほうがよっぽど……!」主馬は舌打ちをして、自分の頭を指でポンと叩いた。「くそっ、これほど自分の頭がのろまだったとは知らなかった! こんなのは頭なんかじゃない、ただの、ううっ……!」
「私はすぐに出発するからね」
平四郎は杉戸口のほうへ足を踏み入れながら言った。
「青山はすぐに江戸へ戻って、私からの連絡を待っていてくれ」
「あなたが自分で追跡するんですか?」
「ずっと探し求めていた相手だからね」彼は珍しく確信に満ちた口調で言った。「それに、今回の旅では確かな手応えを感じているんだ。きっといい知らせを持ち帰れると思うよ」

こだま

一

それはまだ夜が明ける前のことだった。
高い山のふところ、深い森に囲まれた狭い谷間の岩陰で、半之助が今しがた炊き上がったばかりのご飯の鍋をおろし、別にかけておいた味噌汁の鍋に火をかけたところだった。
彼は筒袖の着物に鹿の皮の袖なしを重ね着し、粗末な葛布(くずふ)の短袴(たんばかま)をはき、何かの毛皮で作られた自家製の草履を履いていた。
少しふっくらし、太陽に日焼けしてすっかり逞しくなっていたが、月代(さかやき)も髭もきれいに剃り上げているため、もともとの品の良さがかえって際立つほどだった。
地面を掘り、石を積み上げて作った不格好な手製の竈(かまど)からは、勢いよく炎の舌が伸び、煙がゆるやかに木々の交じり合う枝葉の間へと、揺らめきながら昇っていく。
周囲はまだ暗かった。
濃い灰色をした霧が森全体をすっぽりと包み込み、まるで生き物のようにかすかに揺れ動いていた。
まわりには檜(ひのき)や椹(さわら)、杉といった大人が両手で抱えきれないほどの巨木ばかりがそびえ立ち、どの木の幹も霧のためにびっしょりと濡れていた。
地面に生い茂る低い灌木(かんぼく)の若葉も、草の葉も、まるで雨が降った後のようにしっとりと濡れ、そこから落ちる水滴が、厚く敷き詰められた古い落葉の上に、時折ポツリポツリと音を立ててこぼれ落ちていた。
霧に押し込められた冷たい山気の中に、湿っぽくコケの匂いが漂っていた。半之助は立てて坐った膝を、両手で抱えながら、なにを聞きいるともなく、うっとりと眼をほそめた。
彼の位置から、ほぼ十歩のところに、ごく細い渓流がある。
細いけれども、水は豊かで、水蝕された岩の急傾斜を、さあさあと、快い音をたてて流れている。
深い森の中なので、たいていな雨では、濁ることがない。
濁っても、せいぜい二日もすれば、きれいに澄んだ。
梢のあたりで小鳥が鳴いた。
彼は鳥の名などは、殆んど知らないが、いつも朝はやく、まっさきに鳴きだす鳥で、自分流に「めざまし鳥」と呼んでいる。
チチチッ チチッ ヒヨヒヨヒヨ チッ
こういったような、よく響く、まろやかな声である、ひと月ほどまえ、三月はじめの、まだ朝の肌寒いじぶんには、梢からおりて、(釜戸の火を恋うるかのように)すぐ近くまで、寄って来たものであった。
うまそうな、味噌の香がし始め、蓋を揺って、汁がふきこぼれた。
彼は濡らした手拭で、鉄のつるを取り、釜戸の脇におろすと、代りに、大きな湯沸しをかけて、立ちあがった。
そのとき、「ほっ、ほう……」という声が聞えた。

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