初級翻訳・山彦乙女 第50話

山彦乙女

花世はすっかり気まずそうな様子で、話題をあちこちにそらしながら、自分で持ってきたお弁当の包みを開き、もちろん半之助にも無理やり分け与えながらきれいに平らげてしまった。そして、ついにあきらめたのだろう、雨のことには一切触れず、十時すぎに半之助の蓑(みの)と笠を借りて帰っていったのだった。

十七日は午後まで風が強く、林の木々がざわざわと音を立てるほどだったが、風がピタリとやむと同時に、雲ひとつないほどきれいに晴れ渡り、夕方の空は目を見張るほど美しかった。
……夕食をすませ、待ちに待っていた半之助は、部屋の明かりを消して家の前庭に下り、大きな木の根っこで作った腰掛けに腰を下ろして、月が昇るにつれてだんだんと明るくなっていくまわりの景色を眺めていた。
すると花世が、あの「ほっほう」という声(それは谷から谷へとこだまを響かせながら)で呼びながら、ものすごくのんびりとした様子で現れた。
その夜の花世は、白い生地に秋の草花の模様が染められた着物を着ていて、めずらしく野袴(のばかま)は穿(は)かず、代わりに派手な竜胆色(りんどういろ)の帯をうしろで大きく結び、素足に草履を履いていた。
お化粧もしているようで、髪からは甘い香油の匂いがふんわりと漂っていた。
「ねえ、すごくいいお月さまでしょ!」
彼女は鼻を高高にして言った。
まるで自分がそのお月さまを空に引っ張り出してやったのだと言わんばかりの口ぶりだった。
「――本当だね、きれいだな」
半之助は花世の姿を見てそう言いかけてから、彼女が本気で見違えるほど美しくなっていることに気づき、思わず目を見張った。
花世もまた、半之助のその視線とほめ言葉が自分に向けられていることに気づいたらしく、ちょっと得意げな顔ですましたものの、嬉しさが隠しきれずにすぐにニコニコと笑い出し、
「さあ、行きましょう!」
と、はなやかな声で言った。
半之助は胸の奥に、甘く温かい感情がゆったりと波打つのを感じながら、青く澄みわたった明るい山道を登っていった。三

「わたくし、昨日の夜中には、ものすごく泣いてしまったんですの」
歩き出すとすぐに、花世はいつも通りのおしゃべりを始めた。
言葉がやけにていねいなときは、だいたいは半之助に関係する話なのだ。
また何かからかわれたり、チクリと痛いところを突かれたりするのだろうか、と思っていると、まさにその予想通りの展開になった。
「どうしてだか、おわかりになります?」
「まあ、教えてよ」
「わたくしね、あなたに鳥の翼とおんなじ、すてきな羽根をつけてあげたいと思ったんですの」
「ほう、羽根かい」
「鷲のように大きくて力強くて、そのうえきれいな翼をですわ。そうすればあなたは、好きなときに空へふわっと舞い上がって、自由自在にどこへでも飛んでいくことができますでしょう」
野袴を穿いていないせいか、彼女は着物の裾が気になっているらしい。
いつもとは違って、しなやかでおしとやかな歩き方をしていたが、話に夢中になってくると、ついついそれを忘れて大股で歩いてしまう。
すると、白くてすべすべした綺麗なすねがチラリと見えてしまい、慌ててまた優雅な歩き方に戻すのだった。
「どうしてまたそんなこと」と半之助がたずねた、「急にそんな突飛なことを考えついたんだい?」
「あら、急なんかじゃございませんわ。わたくしはただ、あなたがいつもそんなふうに思っていらっしゃるんだってことに、気がついただけなんですの」
「ぼくがどう思っているっていうんだい?」
「鳥のような羽根がほしいって……、どこか遠くへ飛んでいってしまいたいって、ときどきそういうお顔をなさるんですわ。それも、お会いしているときには気づかなくて、おうちに帰ってからふと気づくんですの。『ああ、あの方はあんなお顔をなさっていたわ、どこかへ行ってしまわれるんじゃないかしら、どうしよう……』って、そう思ってしまうんですもの」
わけもなく、半之助の胸にキュッと一種の痛みが走った。
「だから、乙女は考えましたの。あなたに翼をつけてあげたいって。そうすればあなたは、ここでの暮らしがつまらなくなったり、退屈したり寂しくなったりしたときに、さっと空へ舞い上がって、高く高く雲の上まで抜け出したり、山を越え谷を越えして、好きなだけ遊んでくることができるでしょう? そうしてすっかり気分がなおったら、またここに帰っていらっしゃるの。ね、それってすごく素敵でしょ? そんなふうになれたらいいのなって、思いませんこと?」
花世は彼の顔をじっと見つめた。
そして、彼が何も言い返すより先に、なんだかとても切なそうな溜息をついて、こう続けたのだ。
「だけど、人間に羽根をつけるなんてことはできませんわ。どうやったって……。もしも、この乙女の命を差し出せばそれができるっていうなら、いつでも喜んで命くらい代わりに出しますわ。命じゃなくて、手や足くらいだったらもっとよかったけれど、命だってちっとも怖くありませんもの」
「この道で合っているのかな? どうやら下り坂になってきたようだけれど」
「でも、どうあがいたってできないんですわ」花世はそんな質問はお構いなしに話を続けた。「どんなことをしたって、乙女の命と引き換えにしたって、あなたに翼をつけてあげることはできない。あなたの願いをかなえてあげることはできない。いつまでもあなたを不幸なままにしておかなければならない……そう思うと、あなたがお可哀そうで、自分が情けなくて、悲しくって、つらくて、いくら泣いても涙が止まらないんですの」
下り坂になった道は、いつの間にか林を抜け、かなりの急な上り坂に変わり、山の中腹をぐるっと回る場所からは、法王連山の姿が見えることもあった。
しかし花世は歩みを止めず、さらに上り続けた。法王山を見るには、ちゃんと「見るべき最高の場所」があるというのだ。
そして彼女のおしゃべりは、まだまだやむ気配がなかった。それはもう、まるですてきな歌のようだった。
子守唄のようにも聞こえて、あまやかに、途切れることなく彼を包み込み、優しくあやしてくれているかのように思えた。
ついに甘利山の頂上に到着すると、花世は息を整える暇もなく、「ほっ、ほう……!」と元気いっぱいに叫んだ。
胸を張って、声の限りに二度、三度と叫ぶと、半之助のほうを振り返って、「あれを聞いてごらん!」というような手まねをした。
彼女の声が、美しい山彦となって何重にも返ってくる。
最初は高く、次はだんだん低くなり、さらに低くなり、山彦がまた別の山彦を呼び起こして、しだいに遠く、かすかに消えていく……。それはまるで、眠っていた山々の精霊たちが、彼女の呼び声に目を覚まして、お互いに声を掛け合いながら返事をしているかのように感じられた。
「――ねえ、聞こえるでしょう?」
花世はそう言って、得意げに彼を見つめ、ニコッと微笑んだ。
半之助も同じように微笑み返し、静かにうなずいた。
頂上から西側へ少し下っていくと、かなり広くて平らな、大きな岩の台地があった。
花世は彼をそこに案内していき、まばらに生えた草の上に、並んで腰を下ろした。
そして初めて、「さあ、ごらんなさい!」と言いたげに、黙って前方を指さすように手を大きく振ってみせた。

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