初級翻訳・幻影の盾 第9話

夏目 漱石

ただ、視線を遠くへ放てば、木の幹が近づいたり遠ざかったりしながら黒く並ぶ間から、澄み渡った秋の空が鏡のように光っており、それは心洗われる眺めだ。
時折、その鏡のような空を、蜘蛛の糸が流れていく様子まで横から見て取れる。
地面は一面の苔に覆われている。秋に入って少し黄色く色づいた場所もあれば、薄茶色に枯れかかったところもある。しかし、人の踏み入った跡がないから、黄色は黄色、薄茶は薄茶のまま、苔という太古の姿をそのまま残している。
ここかしこにシダの茂りが平坦な地面を破り、幽玄な雰囲気を添えている。
鳥の鳴き声もせず、風も吹かない。
静寂が太古の昔を至るところに描き出しているが、木が高くないことと、秋の日差しが射し透っているせいで、静かな割には恐ろしい感じは少ない。
その秋の日は、極めて明るい。
真上から林を照らす光線が、あの丸い黄色の無数の葉を一度に洗い、林の中は意外なほど明るい。
葉の向きは当然一様ではないから、光を反射する具合もすべて違う。
同じ黄色ではあっても、透明、半透明、濃い色、薄い色と、それぞれが趣向を凝らしている。
それが乱れ、混じり合い、重なって苔の上を照らすから、林の中にいる者は、琥珀の屏風に囲まれて、間接的に太陽の光を浴びているような心地になる。
ウィリアムは目覚めては苦しみ、再び夢に逃げ込むという様子だ。
糸のような音が、落ち着きかけた耳に再び響いてくる。
今度はその怪しい音がする方へ目を向けた。
幹の向こうに空が見える反対側の方角を見ると――西か東かはわからないが――そこだけは木が重なり合い、一畝(せ)ほどが際立って薄暗くなっている。その中に池があった。池は決して大きくはない。出来損ないの瓜のように、細長い形をして木陰に横たわっている。
これもまた太古から存在する池で、中に湛えられているのも同じく太古の水なのだろう、寒気がするほど青い。
いつ散ったものか、黄色い小さな葉が水の上に浮いている。
ここにも地上の風は吹き込むことがあると見えて、浮かぶ葉は吹き寄せられ、所々にかたまっている。
もちろん、群れを離れて散らばっている葉も数え切れないほどある。
糸を弾くような音が三度響いた。
滑らかな坂道を、ゴムの輪がゆっくりと転がり上がるように、低い音から自然に高い調子へと移り、ピタリと止まる。
ウィリアムの腰は鞍から浮き上がった。
池の方に目を向けたまま、音がした方角へと静かに歩みを進める。
ぼろぼろと崩れる苔の地面は厚く柔らかく、歩いているときでさえ、まるで座っているときのように林の中は静まり返っている。
足音を立てれば自分が動いていることに気づくが、音がないと動いていることすら忘れてしまう。ウィリアムは歩いているという自覚もなく、ただふらふらと池のほとりまで進み寄る。
池の幅が少し狭まったところに、寝そべった牛を思わせる大きな岩が向こう岸から突き出し、半分ほど岸に沿ってうずくまっている。ウィリアムと岩との間は、わずか一丈(約三メートル)余りだろうか。
その岩の上に一人の女が、眩しいほどに真っ赤な衣をまとって、見たこともない楽器を弾くともなしに弾いている。
碧く澄んだ水が肌に沁み入るような寒々しい色をしている中で、この女の影を水面に倒映させている。
投げ出した足の、長い裳(も)に隠れる先までが、くっきりと水に写っている。
水は元より動かず、女も動かないので、影も動かない。
ただ、弓を擦る右の手だけが、糸に沿ってゆるやかに揺れている。
頭を飾る、糸に貫かれた真珠の飾りが、静まり返った水底で明星のように光を放つ。
黒い瞳に黒い髪の女である。
クララとは似ても似つかない。
女はやがて歌い出す。
「岩の上なる我がまことか、水の下なる影がまことか」
清く、どこか淋しい声である。
風の渡らない梢から黄色い葉がはらはらと赤き衣にかかり、池の面に落ちた。
静かな影が少しだけ揺らぎ、また元通りに戻る。
ウィリアムは茫然として立ち尽くす。
「まこととは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」
女は静かに歌い終えると、ウィリアムの方を振り返った。
ウィリアムは瞬きもせず、女の顔を見つめ続ける。
「恋に口惜しき命の占を、盾に問えかし、まぼろしの盾」
ウィリアムは崖を飛び越える牡鹿のように踵を返し、盾を取りに戻る。
女は「ただ懸命に、盾の面を見なさい」と言う。
ウィリアムは無言のまま盾を抱え、池の縁に腰を下ろした。
広大な空の下、物寂しい林の奥、幽玄で冷ややかな池の上には、音と呼べるものは何も聞こえない。
ただ、ウィリアムが見つめる盾の内側が、いつものように回転し始めると同時に、昔ながらの微かな声が彼の耳を襲うのみである。
「盾の中に何をみる」と女は水の向こうから問う。
「ありとある蛇の毛が動くのが見える」とウィリアムは目を離さずに答える。
「物音は?」「鵞鳥の羽ペンが紙を走るような音だ」
「迷えば迷うほど、心は激しく動くもの。音のないところに音を聞いてはならない、聞いてはならないのですよ」と女は半ば歌うように、半ば語るように、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波のように振る。
動いていた毛は次第に静まり、鳴っていた音も自然と消えていく。
見入っていた盾の模様は霞むのかと思えば、やがて盾の面に黒い幕がかかる。
見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない。常闇(とこやみ)の世に住む自分を不思議に思い、「暗い、暗い」とつぶやく。
自分の呼ぶ声すら自分には聞こえないほど、その闇は深い。
「闇に烏(からす)の姿を見ないと嘆くのなら、鳴き声さえ聞こうと恋い焦がれなさい。身も命も闇に捨ててしまうなら、身も命も闇で拾い上げれば、どんなに嬉しいことでしょう」
女の歌声が百尺の壁を通り抜け、蜘蛛の糸のような細い通り道から届いてくる。
歌はしばし途切れ、弓を擦る音が風を誘い、遠くから高く低く響いて、ウィリアムの耳に限りない清涼な気を吹き込む。
その時、暗闇の中に一粒の白玉のような光が灯された。
見る間にその光は大きくなっていく。
闇が退くのか、光が進むのか。ウィリアムの目の届く限り、四方八方、果てしない空に巨大な氷の層を連ねたように景色が開けていく。
頭を覆う天もなく、足を乗せる地もなく、冷たく虚無の真ん中にただ一人立っている。
「あなたは今、どこにいるのですか」と遠くから問いかけるのは、あの女の声だ。
「無の中か、有の中か、それともガラス瓶の中か」と、ウィリアムはまるで死から蘇った者のように答える。
彼の眼はまだ盾を離れていない。
女が歌い出す。
「イタリアの、イタリアの海が、紫に夜が明けた」
「広い海がほのぼのと明けて……橙色の日が波間から昇ってくる」とウィリアムが言う。
彼の眼はなおも盾を見つめている。
彼の心には、自分も世間も何もない。
ただ盾があるだけだ。
髪の先から足の爪先に至るまで、五臓六腑、耳目口鼻のすべてを挙げ、その身のすべてが「幻影の盾」そのものとなっている。
彼の全身は盾になり切っている。
盾がウィリアムであり、ウィリアムが盾なのだ。
二つのものが純粋で混じりけのない清浄な世界でぴたりと重なったとき――イタリアの空は自然に明け、イタリアの太陽は自ずと昇る。
女は再び歌う。

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