あっしは、出雲様の実家が仲通りの呉服屋『増田屋』だと聞き出し、それとはなしに見張っていると――」
「出雲殿がどうした? あれは亡き母上の縁故の方で、千代田の大奥のことを何かとこの駿河太郎に教えてくれた恩人だが」
天魔太郎も思わず乗り出しました。
「そのことがバレて、宿元の増田屋に下げられ、お上のご沙汰を待っているのです。軽くて追放、重ければ死罪。お上の怒りは並大抵ではないから、まず命はあるまいということです」
「――――」
「増田屋は店を閉めたまま、八方から役人に見張られて、火の消えたようなありさまです。何とかするなら今のうちで……」
野州の熊五郎は、周囲の闇を気遣いながら、ささやくのでした。
増田屋の奥座敷では、中老・出雲を中心に、主人である庄兵衛をはじめ、親類の男女七人が半円を描くようにして詰め寄っていました。
出雲というのは御殿で呼ばれていた名前で、本名はお筆。三十前後で、とても立派な女でした。
増田屋の主人・庄兵衛の先妻の妹であり、母は若い頃、駿河大納言の奥方に仕えていたことがあります。その縁で天魔太郎の生い立ちも知っており、宿下がりの際には天魔太郎と月子にも会って、尋ねられるままに千代田の大奥のことも、何の気なしに漏らしていたのです。
「どうだお筆さん。駿河大納言様の忘れ形見の太郎とやらが、お城に忍び込んで、恐れ多くも上様の首を狙ったとか。その手引きをしたのがお前だという疑いで宿へ下げられたが、こうも大勢の役人に見張られていては、増田屋も商売はできん。その上、明日にもご沙汰がある。お前は首を切られた挙句、つながる縁で増田屋も取り潰しか所払いだ。長く続いたこの店もお前の不心得でそれっきりだ」
主人の庄兵衛にまくしたてられて、
「あいすみません。私はそんなことになろうとは、少しも気がつかなかったのです」
中老・出雲のお筆は、首を垂れてそっと涙を拭いました。
「知らなかったじゃ済まないぜ、お筆さん。少しぐらいの手落ちや粗相じゃない、お前さんは謀反人の片棒を担いだんだぜ。どうせ助からない命なら、ここで潔く自害でもしてくれたら、お上にも手加減があって、せめて増田屋の店だけでも残るだろう――」
「――――」
「悪く思ってくれるなよ、お筆さん。親類会議を開いて、お前に死んでもらうことと決めたんだ――な、皆の衆」
庄兵衛は冷たい顔をねじ曲げて、親類たちの顔を見渡しました。
「――――」
が、親類たちは答える者もなく、顔を見合わせて黙っています。
「この通り、一人も異論はないようだ。明日という日は、お上からどんなお達しがあるか分からない、善は急げだ。この通り用意までしてあるが――」
庄兵衛はそう言いながら、用意していた三宝の上の白い布を取り払いました。
その下から現れたのは、細身の女持ち短刀が一振り。並みいる親類たちもさすがに息を呑みますが、店の外で赤々と燃える篝火(かがりび)や、役人や小者たちがざわめく声を聞くと、進んでお筆の自害を止める勇気もくじけてしまいます。
「では皆さま、私は母上、姉上のそばへ参ります。ごめんくださいませ」
この期に及んでも、中老・出雲のお筆は悪びれた様子もありません。
静かに手を差し伸べて短刀を取ると、右の肩から袷(あわせ)の袖を脱いで、純白の下着のたもとに、キリキリと抜身の短刀の柄のあたりを巻き、肌を押しぬいだ覚悟の胸元へ――。
「あッ、待った!」
雨戸が一枚、外からの体当たりでパッと開くと、続いてつぶてが一つ、闇を切り裂いて出雲の拳をハタと打ちました。
「アッ!」
短刀はポロリと落ちました。
「なんだ、なんだ!」
立ち騒ぐ主人・庄兵衛と七人の親類たち。
その前へ、カッと紅蓮の炎が渦を巻くのです。
「アッ、火事だ!」
驚き慌てたのも無理はありません。どこから現れたのか、地獄の絵巻物に出てくるような大きな火焔車(かえんぐるま)が一台、縁側から座敷へ飛び込んできたかと思うと、身長が六尺(約百八十センチ)もある赤鬼と青鬼が、鉄棒を振り回しながら飛び込んできました。鬼たちは、店の主人である庄兵衛の襟首をつかむと、そのまま火焔車へ放り込み、座敷から座敷へ、縁側から縁側へと、炎を上げて暴れ回るのです。
「あ、ああっ、助けてくれーっ!」
主人である庄兵衛は、燃えさかる炎の中で必死に悲鳴を上げますが、七人の親類たちはもちろん、店じゅうの番頭や小僧たちも、あまりの恐ろしさに近づく者など一人もおらず、ただ「あれよあれよ」と大騒ぎするばかりです。
「どうした、騒がしいぞっ!」
警備の役人や小者たちが、あまりの騒ぎに庭からドッと飛び込んできましたが、その時にはもう火焔車の炎も収まっており、どこへ消えたのか、赤鬼や青鬼の姿も跡形もありません。
「火の車だ、火の車が出たぞ!」
人々が指さす先を見ると、縁側の上には何の変哲もないただの大八車が置かれていました。そして、その車の上に大の字に縛り付けられた主人・庄兵衛が、気を失って泡を吹いているではありませんか。
「出雲殿は……どこにも見当たらないぞ!」
役人の頭が、ようやくそのことに気づきました。増田屋の奥にある八畳間――そこへ押し込められていたはずの中老・出雲ことお筆は、どこへどうやって消えてしまったのか、影も形もなく、ただ抜身の短刀だけが、座布団の上で冷たく光っているだけでした。
天魔太郎と小僧の虎吉、そして野州の熊五郎の三人は、増田屋から中老・出雲のお筆を救い出すと、仮の隠れ家である鎌倉河岸(かまくらがし)へ戻りました。そこでは、月子とお千代が二人を待ち受けていました。
「熊五郎、お前の赤鬼の化けっぷり、見事だったぞ」
天魔太郎は、みんなの変装を解かせながら、野州の熊五郎の活躍を褒め称えています。
「お頭、俺はどうでした? 自分でもずいぶんうまくやったつもりですが……」
虎吉は、自分だけ褒められないのが不満なようです。
「うまかったよ。だが、少し体が小さくて、青鬼の赤ん坊みたいだったな。おや、まだ額に角なんか付けているのか?」
「へっ、熊五郎さんぐらいの年になれば、俺だってノッポになりますよ!」
虎吉は負け惜しみを言って、みんなに笑われています。
「ところで、お筆をいつまでも江戸に置いておくわけにはいくまい。虎吉、丹沢(たんざわ)の仲間たちがいるところまで、送ってやってくれないか」
「お安い御用ですが、もう少し江戸であばれさせてくださいよ。精いっぱい働きますから!」
増田屋での火の車騒ぎが面白かったので、虎吉だけは天魔太郎の言うことを聞こうともしません。
「いえ、いいのよ。私には相州厚木(そうしゅうあつぎ)生まれの親切な腰元がいますから。道さえ教えていただければ、その子に送ってもらいますから」
出雲のお筆は、虎吉が乗り気でないのを見て、そう言い出しました。お筆の腰元というのは、大奥を下がってこの近所の叔父さんのところに身を寄せている、お兼という十八歳の娘です。その晩のうちに呼んでくると、かつての主人である出雲のお筆と再会し、二人で手をとりあって泣いて喜びました。
それから二、三日経つと、お筆とお兼を丹沢山の山塞(さんさい)へ送り届けました。
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