初級翻訳・幻術天魔太郎 第7話

幻術天魔太郎

「次郎坊、後を頼むぞ!」

大猿に追手を食い止めさせ、天魔太郎は印を結び、ムラムラと湧き立つ霞(かすみ)の中へ、虎吉と熊五郎を誘って姿を消してしまいました。

追いすがる二手、三手の組子たちは、思わぬ大猿に道を塞がれてたじろぎ、その目の前には夜霧の煙幕が広がり、ただ「あれよあれよ」と地団駄を踏むばかりでした。

明くる日、昨夜の嵐を忘れたような晴天となりました。江戸の町並みには陽炎(かげろう)が燃え、嵐に散り残った花の名残が、チラリホラリとあさぎ色の空に舞っています。

お城大工の棟梁・泉田筑後は、千住小塚原(こづかっぱら)の溜(ため)から引き出され、正五ツ(午前八時)に処刑場へと引き据えられました。

処刑は五ツ半(午前九時)の予定。それまで囚人を小役人や小者が取り囲み、検死役人の阿曾倉監物(あそくらけんもつ)や二、三人の下役たちと、しばらく話をしながら時を待っております。

「昨夜、嵐の中を伝馬町の牢破りがあったそうだな」

「大猿を連れた子供だったと申します。錠前を開けて、泉田筑後の女房と召使の者十三人、一人残らず逃げ出してしまいました」

「いやはや、大間抜けな話だ。何のために役人がいるのだ」

阿曾倉監物は、実に愉快そうにそう言ったのでした。自分の預かっていた囚人、泉田筑後(いずみだちくご)が翌日の処刑に備えて小塚原(こづかっぱら)の溜(ため)に移されていたため、役人たちは、昨夜の牢破りで筑後が救い出されていたことに気づいていませんでした。

その時です。
晴れ渡った朝空の片隅に一点、黒い雲が見えたかと思う間もなく、それがしだいに空の半分にまで広がりました。そして、一陣の強風が天の一角からサッと吹き下ろしてきました。

落花と土砂が渦を巻いて襲いかかってきたかと思うと、役人も小者も、そして囚人の泉田筑後までもが、一瞬のうちにかき消されたように見えなくなってしまいました。

「それッ、魔が差してはならぬ! 時刻は少し早いが、すぐさま処刑の用意をしろ!」
土砂が過ぎ去ると、阿曾倉監物(あそくらけんもつ)が立ち上がってわめき立てました。
「おッ、かしこまってござる!」
係の役人たちが総出となって、小塚原の処刑場の竹矢来(たけやらい)の中へ、囚人の泉田筑後を真ん中にしてドッと入り込みました。

「早く、少しも早く!」
泉田筑後は、荒筵(あらむしろ)を敷いた土壇場に引き据えられました。
棟梁といっても、彼は百石取りの身分であり、作事奉行の次に監督権を持つお城大工です。人品骨柄(にんぴんこつがら)もまことに立派でした。
泉田筑後は観念して目を閉じ、最後の座に落ち着きました。

読み聞かせる罪状もそこそこに、阿曾倉監物が手を挙げて指図すると、たすき掛けをした首切り役人が、大刀を横に構えて後ろに立ちます。

「それッ!」
今ぞ最後と振りかぶった一刀。またも巻き起こる砂塵。しばらくして砂煙が静まるのを待って見直すと――。

「や、や、猿!」
土壇場に据えられていたはずの泉田筑後が、いつのまにやら一匹の大猿に変わっているではありませんか!

      犬、猿、雉子

伝馬町の大牢から、そして小塚原の刑場から首尾よく救い出されたお城大工の棟梁・泉田筑後と、その妻の操(みさお)は、大勢の番頭、小僧、職人たちを加えて総勢十五人となりました。彼らは船頭・権六(ごんろく)の船で神奈川へと送られ、そこで各自の支度を整えると、丹沢山(たんざわさん)の隠れ家へと、二人三人ずつ人目に付かない旅を続けることになりました。

その中で、駿河太郎(するがたろう)こと天魔太郎と、その妹の月子(つきこ)は、大願成就のために百人の命を救うという望みに燃え、江戸に踏みとどまることになりました。泉田筑後の娘・お千代までが、
「私も江戸に残っていいでしょうね、お母さま。駿河太郎さまへのご恩返しに、月子さんといっしょに、何かの手伝いをいたします」
と、勇ましく言うのです。

母の操は一応それを止めましたが、お千代の決心が固いので、しばらく思うままにさせることにしました。大山詣(おおやままい)りに変装した一行は、しばしの別れを惜しみながら、菜の花が咲き匂う厚木街道を丹沢山へと向かったのです。

江戸へ引き返すことになった天魔太郎と月子とお千代。六郷(ろくごう)の渡しを越えて、やがて品川へ近づいたのはもう夕暮れ時でした。

「オーイ、オーイ!」
後ろから飛んできたのは、神奈川で別れたはずの小僧の虎吉(とらきち)でした。彼は三度笠を宙に放り投げながら追いすがってきます。
「虎吉か、どうした、忘れ物か?」
天魔太郎は足を止めました。

「でっかい忘れ物だよ! ぼっちゃんたちは、この虎吉っていう人間を忘れたんだ。おれがいないと、江戸へ行って不自由するぜ」
「何を言うの虎吉、おまえはみんなといっしょに丹沢山へ行くはずだったじゃないの」
お千代は一応たしなめました。

「丹沢の奥へ入って、ワラビやゼンマイを採って、日向ぼっこをして長い一日が暮らせますかってんだ! おれがついていさえすれば、みなさんに不自由はさせませんよ」
「まあ、しようのない虎吉ねえ」
そう言ったものの、お千代も月子も天魔太郎も、虎吉の心意気が嬉しくないわけではありませんでした。

一行が四人になって、高輪(たかなわ)の大木戸をくぐったのはもう夜のことです。
「お待ち申し上げておりましたよ、お頭(おかしら)」
町の暗がりの中からヌッと現れたのは、天魔太郎に助けてもらった野州(やしゅう)の熊五郎です。どこで工面したのか、ヨレヨレの素袷(すあわせ)に頬かむりをして、クマのようなヒゲだけは剃り落とし、その柄に似合わず人懐っこい声で言いました。

「おまえは熊五郎、もう用事はないはずだが――」
天魔太郎は一応警戒しました。この男の口を割らせるために大牢から出してやりましたが、泉田筑後を救い出した今、もう用事のない男なのです。

「用事はないとは情けないじゃありませんか、お頭」
「その『お頭』が気に入らないよ。おれはまるで泥棒仲間のようじゃないか。ほかに呼びようもあるだろう」
「あいすみません。あっしはこんなガサツな人間で、なんと申し上げていいか見当もつきませんが、お頭でいけなければ、大将、先生、旦那、小頭、親分……」
「みんなダメだ」
「ともかく、大変なことを聞いてきました。それを土産に、あっしも子分の一人にしてください。お願いでございます!」「第一、あっしはケンカの罪で牢屋に入れられておりましたが、生まれてこのかた、人様のものをチリ一つ取った覚えはございません」
野州の熊五郎は、真心を込めてこう言います。
「あんなに言うんだから、仲間にしてやってくださいよ。桃太郎だって犬、猿、雉子の家来が三人。辻講釈(つじこうしゃく)で聞くところによれば、西遊記の三蔵法師にも家来は三人、孫悟空に猪八戒に沙悟浄(さごじょう)でしょう」
虎吉は、一生懸命とりなしてやります。
「よしよし、虎吉と一緒に手伝ってもらってもいいが、そのお土産の話というのはなんだ」
天魔太郎も、ようやくその気になったようです。
「お頭は、大奥の中老・出雲様(いずもさま)のことを心配していたでしょう。

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