二十面相
日下部左門殿」
ああ、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術収集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ヶ原のかくれがを逃亡してから、ほとんど一ヵ月になります。そのあいだ、怪盗がどこで何をしていたか、だれも知るものはありません。おそらく新しい隠れ家をつくり、手下の者たちを集めて、第二、第三の恐ろしい陰謀をたくらんでいたのでしょう。そして、まず白羽の矢を立てられたのが、意外な山奥の、日下部家の美術城でした。
「十一月十五日の夜といえば、今夜だ。ああ、わしはどうすればよいのじゃ。二十面相にねらわれたからには、もう、わしの宝物はなくなったも同然だ。あいつは、警視庁の力でも、どうすることもできなかった恐ろしい盗賊じゃないか。こんな片田舎の警察の手におえるものではない。ああ、わしはもう破滅だ。この宝物をとられてしまうくらいなら、いっそ死んだほうがましじゃ」
左門老人は、いきなり立ちあがって、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩きはじめました。
「ああ、運のつきじゃ。もう逃れるすべはない」
いつのまにか、老人の青ざめたしわくちゃの顔が、涙に濡れていました。
「おや、あれはなんだったかな……ああ、わしは思い出したぞ。わしは思い出したぞ。どうして、今まで、そこへ気がつかなかったのだろう。……神さまは、まだこのわしをお見捨てなさらないのじゃ。あの人さえいてくれたら、わしは助かるかもしれないぞ」
何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに生気がみなぎってきました。
「おい、作蔵、作蔵はいないか」
老人は部屋の外へ出て、パンパンと手をたたきながら、しきりに、じいやを呼びたてました。ただならぬ主人の声に、じいやが駆けつけてきますと、
「早く、『伊豆日報』を持ってきてくれ。たしかおとといの新聞だったと思うが、なんでもいいから三―四日ぶんまとめて持ってきてくれ。早くだ、早くだぞ」
と、恐ろしい剣幕で命じました。作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞の束を持ってきますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見ていきましたが、やっぱりおとといの十三日の消息欄に、つぎのような記事が出ていました。
『明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修善寺温泉|富士屋旅館に投宿、四―五日滞在の予定である。』
「これだ。これだ。二十面相に敵対できる人物は、この明智探偵のほかにはない」羽柴家の盗難事件では、助手の小林少年でさえ、あれほどのみごとな活躍をしたのだ。その師匠である明智探偵なら、きっとわしの破滅を救ってくれるにちがいない。どんなことがあっても、この名探偵を連れてこなくてはならん」
老人はそんな独り言をつぶやきながら、作蔵じいやの女房を呼んで着替えを済ませると、宝物部屋の頑丈な板戸をピッタリと閉め、外から鍵をかけました。そして二人の召使いに、その前で見張り番をするよう厳しく言い聞かせると、急ぎ足で屋敷を出ました。
言うまでもなく、向かう先は近くの修善寺温泉、富士屋旅館です。そこへ行って明智探偵に面会し、宝物の保護を頼もうというわけです。ああ、待ちに待った名探偵・明智小五郎が、とうとう帰ってきたのです。しかも、時も時、場所も場所。まるで申し合わせたかのように、二十面相が襲おうとしている日下部氏の美術城のすぐ近くに、湯治に来ていようとは。左門老人にとっては、まさに願ってもない幸運と言わねばなりません。
ねずみ色のトンビ(マント)に身を包んだ小柄な左門老人が、長い坂道をチョコチョコと走るような足取りで富士屋旅館に着いたのは、もう午後一時ごろでした。
「明智小五郎先生は?」
と尋ねると、「裏の谷川へ魚釣りに出かけられました」との答え。そこで女中を案内に頼んで、またテクテクと谷川へ下りていかなければなりませんでした。クマザサなどの茂った危うい道を通って深い谷間に下りると、美しい水がせせらぎの音を立てて流れていました。流れのところどころには、飛び石のように大きな岩が頭を出しています。その一番大きな平らな岩の上に、どてら姿の男が背中を丸めて座り、垂らした釣り竿の先をじっと見つめています。
「あの方が、明智先生でございます」
女中が先頭に立って、岩の上をピョイピョイと飛びながら、その男のそばへ近づいていきました。
「先生、あの、このお方が先生にお目にかかりたいと言って、わざわざ遠方からおいでなさいましたのですが……」
その声に、どてら姿の男はうるさそうにこちらを振り向いて、
「大きな声を出しちゃいけない。魚が逃げてしまうじゃないか」
と叱りつけました。もじゃもじゃに乱れた頭髪、鋭い目、どちらかといえば青白く引き締まった顔、高い鼻、ひげはなく、キッと力のこもった唇。写真で見覚えのある明智名探偵にちがいありません。
「あたしはこういう者ですが」
左門老人は名刺を差し出しながら、
「先生におりいっておねがいがあり、おたずねしたのですが……」
と、小腰をかがめました。すると明智探偵は、名刺を受け取ることは受け取りましたが、よく見もしないで、ひどく面倒くさそうに、
「ああ、そうですか。で、どんなご用ですか」
と言いながら、また釣り竿の先へ気を取られています。老人は女中に先へ帰るように言い付けて、その後ろ姿を見送ってから、
「先生、じつは今日、こんな手紙を受け取ったのです」
と、懐から例の二十面相の予告状を取り出し、釣り竿ばかり見ている探偵の顔の前へ突き出しました。
「ああ、また逃げられてしまった……。困りますねえ、そんなに釣りの邪魔をなすっちゃ。手紙ですって? いったいその手紙が、ぼくにどんな関係があるとおっしゃるのです」
明智はあくまで無愛想です。
「先生は二十面相と呼ばれている賊をご存じないのですかな」
左門老人は少々むかっ腹を立てて、鋭く言い放ちました。
「ホウ、二十面相ですか。二十面相が手紙をよこしたとおっしゃるのですか」
名探偵はいっこう驚く様子もなく、相変わらず釣り竿の先を見つめているのです。そこで老人は仕方なく、怪盗の予告状を自分で読み上げ、日下部家の「お城」にどのような宝物が秘蔵されているかを詳しく物語りました。
「ああ、あなたが、あの奇妙なお城のご主人でしたか」
明智はやっと興味をひかれたらしく、老人のほうへ向き直りました。
「はい、そうです。あの古名画類は、わしの命にも代えがたい宝物です。明智先生、どうかこの老人を助けてください。お願いです」
「で、ぼくにどうしろとおっしゃるのですか」
「すぐに、わたしの宅までお越し願いたいのです。そして、わしの宝物を守っていただきたいのです」
「警察へお届になりましたか。ぼくなんかにお話しになるよりも、まず、警察の保護を願うのが順序だと思いますが」
「いや、それがですね……こう申しちゃなんだが、わしは警察よりも先生を頼りにしておるのです」「二十面相を相手にするなら、ひけをとらない探偵さんは先生のほかにいないと、わしは信じているのです。
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