初級翻訳・怪人二十面相 第21話

怪人二十面相

本来ならば、外務省とか民間団体から、大ぜいの出むかえがあるはずですが、明智はそういうぎょうぎょうしいことが大きらいでしたし、探偵という職業上、できるだけ人目につかぬ心がけをしなければなりませんので、公の方面にはわざと通知をしないで、ただ自宅だけに東京駅着の時間をしらせておいたのでした。それも、いつも明智夫人は出むかえをえんりょして、小林少年が出かけるならわしになっていました。

小林君は、しきりと腕時計をながめています。もう五分たつと、待ちかねた明智先生の汽車が到着するのです。ほとんど、三月ぶりでお会いするのです。なつかしさに、なんだか胸がワクワクするようでした。ふと気がつくと、ひとりのりっぱな紳士が、にこにこ笑顔をつくりながら、小林少年に、近づいてきました。ネズミ色のあたたかそうなオーバー・コート、籐のステッキ、半白の頭髪、半白の口ひげ、デップリ太った顔に、べっこうぶちのめがねが光っています。先方では、にこにこ笑いかけていますけれど、小林君はまったく見知らぬ人でした。

「もしやきみは、明智さんのところの方じゃありませんか」

紳士は、太いやさしい声でたずねました。

「ええ、そうですが……」小林少年は、きょとんとした顔のまま、紳士の言葉にうなずきました。

「わたしは、外務省の辻野という者だが、この列車で明智さんが帰られることがわかったものだから、非公式にお出迎えにきたのですよ。少し内密の用件もあるのでね」と説明しました。

「ああ、そうですか。ぼく、先生の助手の小林っていうんです」

帽子をとって丁寧に頭を下げると、辻野氏はますますにこやかな表情になり、「ああ、きみの名はよく聞いていますよ。じつは、いつか新聞に出た写真で、きみの顔を見おぼえていたものだから、こうして声をかけたのですよ。二十面相との一騎打ちはみごとでしたねえ。きみの人気はたいしたものですよ。わたしのうちの子どもたちも大の小林ファンです。ハハハ……」と、しきりにほめそやすのです。

小林君は少しはずかしくなり、パッと顔を赤くしないではいられませんでした。

「二十面相といえば、修善寺では明智さんの名前をかたったりして、ずいぶん思いきったまねをするね。それに、けさの新聞では、いよいよ国立博物館をおそうのだっていうじゃないか。じつに警察をばかにしきった、あきれた態度だ。けっしてうっちゃってはおけませんよ。あいつをたたきつぶすためだけでも、明智さんが帰ってこられるのを、ぼくは待ちかねていたんだ」

「ええ、ぼくもそうなんです。ぼく、いっしょうけんめいやってみましたけれど、とても、ぼくの力にはおよばないのです。先生にかたき討ちをしてほしいと思って、待ちかねていたんです」

「きみが持っている新聞は、けさの?」

「ええ、そうです。博物館をおそうっていう予告状ののっている新聞です」

小林君はそう言いながら、その記事が出ているページを広げて見せました。社会面の半分ほどが二十面相の記事で埋め尽くされています。その内容をかいつまんで説明しますと、きのう二十面相から国立博物館長あてに速達が届いたのですが、そこには、博物館に収蔵されている美術品を一点残らず頂戴するという、じつにおどろくべき宣告文がしたためてあったのです。

例によって十二月十日という盗み出しの日付まで、はっきりと明記してあるではありませんか。十二月十日といえば、あと九日しかありません。怪人二十面相のおそるべき野心は、ついに頂点に達したかのようです。あろうことか、国家を相手にして戦おうというのです。これまで狙ったのは個人の財宝ばかりで、憎むべき犯行には違いありませんが、世の中には珍しいことではありませんでした。しかし、博物館を襲うというのは、国家の所有物を盗むことになるのです。昔から、こんな大胆不敵な泥棒を計画した者が、ひとりでもいたでしょうか。大胆とも無謀ともいいようのない、おそろしい盗賊です。

しかし考えてみますと、そんな無茶なことが、いったい実行できるのでしょうか。博物館といえば、何十人という役人が詰めています。守衛もいます。おまわりさんもいます。そのうえ、こんな予告をしたのでは、警備がどれほど厳重になるかわかりません。博物館全体を警察官の人垣で取り囲んでしまうような事態だって、起こり得ることです。ああ、二十面相は気でも狂ったのでしょうか。それとも、あいつには、この不可能としか思えないことをやってのける自信があるのでしょうか。人間の知恵では想像もできないような、悪魔の計略があるとでもいうのでしょうか。

さて、二十面相の話題はこのくらいにして、わたしたちは明智名探偵を迎えなければなりません。

「ああ、列車が来たようだ」

辻野氏が注意するまでもなく、小林少年はプラットホームの端へと駆け出しました。出迎えの人波の先頭に立って左の方を眺めると、明智探偵を乗せた急行列車は、刻一刻とその姿を大きくしながら近づいてきます。サーッと空気が震え、黒い鋼鉄の塊が目の前をかすめました。チロチロと通り過ぎていく客車の窓の顔、ブレーキのきしりとともに列車が停止すると、一等車の入り口に、なつかしい、本当になつかしい明智先生の姿が見えました。

黒い背広に、黒い外套、黒いソフト帽という黒ずくめのいでたちで、すでに小林少年に気づいて、にこにこしながら手招きをしているのです。

「先生、お帰りなさい!」

小林君はうれしさのあまり、夢中で先生のそばへ駆け寄りました。明智探偵は赤帽にいくつものトランクを渡すと、プラットホームへ降り立ち、小林君の方へ歩み寄りました。

「小林君、いろいろ苦労をしたそうだね。新聞ですっかり知っているよ。でも、無事でよかった」

ああ、三月ぶりに聞く先生の声です。小林少年は興奮で上気した顔で名探偵をじっと見つめ、さらにそのそばへと寄り添いました。
そして、どちらからともなく手が伸び、師弟のかたい握手が交わされました。
そのとき、外務省の辻野氏と名乗る人物が、明智のほうへ歩み寄り、肩書きが記された名刺を差し出しながら声をかけました。
「明智さんですね。入れ違いになっていてお目にかかったことはありませんが、わたしはこういう者です。じつは、この列車で帰られるということをある筋から耳にしたものですから、急ぎ内密でお話ししたいことがあり、出向いてきたのですよ」

明智は名刺を受け取ると、なぜか考えごとでもするようにしばらくそれを眺めていましたが、やがてふと気を変えたように、快活に答えました。
「ああ、辻野さん、そうですか。お名前はよく存じています。じつは、ぼくも一度帰宅して着替えてから、すぐに外務省へ伺うつもりだったのですが、わざわざお出迎えをいただき恐縮です」
「お疲れのところを恐縮ですが、もし差し支えなければ、ここの鉄道ホテルでお茶を飲みながらお話ししたいのですが、決して手間は取らせません」
「鉄道ホテルですか。ほう、鉄道ホテルでね」
明智は辻野氏の顔をじっと見つめながら、何か感心したようにつぶやきましたが、「ええ、ぼくはちっとも差し支えありません。では、お供しましょう」と答えました。

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