初級翻訳・悪霊物語 第2話

悪霊物語

ああいう小説を読むと、人形師の生き甲斐を感じますよ」

 ジェロームの『ダンス人形』は訳が出ていないはずだから、この老人形師は外国語も読めるのであろう。あらためて書棚の古本を眺めると、英語でもフランス語でもドイツ語でもない背文字があった。蘭堂はなんだか気味が悪くなってきた。目の前の皺だらけの小さな老人が、奥底の知れない人物に感じられてきた。

「蝋人形はどうして造るのですか。やはり型にはめるのですか」

「粘土で原型を造ることもありますが、直接実物からとる場合もあるのです」

「実物からとは?」

「食堂のショーウィンドウに並んでいる蝋製の料理見本をごらんになったことがあるでしょう。あれは実物に石膏をぶっかけて、雌型(めがた)をつくることが多いのですよ。そこへ蝋を流しこんで固め、彩色するのです。人間でも同じことです。ただ石膏がたくさんいるだけですよ」

「じゃあ、人間の肌に石膏を塗るのですね」

「そうです。ごらんなさい。ここに見本がありますよ。ホラ、これがわたしの手です。実物と見くらべてごらんなさい」

 爺さんは本棚の古本のあいだから、開いた人間の手を取り出して、机の上においた。手首のところから切りとった手の平である。老人形師は、自分の手をひらいて、それとならべて机の上にさし出した。小さな皺の一つ一つ、しなびた老人の手の色合いが、そのまま出ている。どちらが本物かわからないほどであった。

「これは、わたしの手に石膏を塗って、雌型をとったのです。全身をとるのも、理屈は同じですよ」

「では、ほんとうの人間からとった全身人形も造ったことがあるのですね」

「ありますとも、画家がモデルを使うように、人形師もモデルを使うのです。モデルはドロドロの石膏にうずまるのですから、あまり気持がよくありませんがね。顔をとるときは、鼻の穴にゴム管を通して、息ができるようにしておくのです。たいていの娘はいやがりますが、なかには、石膏にとじこめられ、抱きしめられるような気持が好きだといって、進んでモデルになる娘もいますよ」

 伴天連爺さんは、歯の抜けた口をあけて、ニヤニヤと笑った。

「そのアトリエを見せていただきたいものですね」

「むろん、お見せしますよ。では、これをすっかり飲んでから、アトリエへ行きましょう。今晩はうすら寒いですから、からだをあたためてからね」

 老人はそういって、グラスを取りあげ、グッとのみほした。蘭堂もそれにならった。強い酒が胃の腑にしみわたり、体がポカポカと熱を帯びてくるようだった。
老人は机の上の燭台を手に取り、先へ立って歩き出した。
そのとき、蝋燭の光の揺れ加減で、机の上に放り出してあった蝋製の手首が、まるで少し動いたように見えた。
それから、真っ暗な廊下を三間(約五メートル)ほど進んだところで、老人が何かカチカチと音を立てている。ポケットから取り出した鍵でドアを開けようとしているのだ。

「このあいだ電力会社と喧嘩をしてしまいましてね、電気が通っていないのですよ。少々暗いですが、我慢してください。もっとも、わたしは夜には仕事をしませんから、電気がなくとも別段差し支えありませんがね」

弁解を並べながらドアが開くと、老人は燭台をヌッとこちらへ差し出し、しばらくじっと蘭堂の顔を見つめていた。

「びっくりしてはいけませんよ。なにしろ蝋人形というやつは、少々気味の悪いものですからね」

そう警告するように告げて、老人は部屋の中へと入っていった。
蘭堂はいい歳をして少し怖くなってきたが、それと同時に、たまらない魅力を感じてもいた。彼は恐る恐る老人のあとについていった。

 燭台の蝋燭が、部屋の中をソロソロと動いていく。
その光の中に、何もない床や、粘土の塊、彫刻用のコテ、石膏の欠片、その他いろいろなガラクタが、次々と現れては消えていく。
そして、光がピタリと止まった。
そこには、異様な物体が横たわっていた。
大きなものであった。

「これ、なんですか」

気味が悪くて、黙っていられなかった。

「よくご覧なさい。死骸ですよ。断末魔の姿。死にゆく瞬間です。わたしの自慢の作品ですよ」

土色の男の体だった。目が血走って赤く、唇が真っ青だ。首から胸にかけて、黒い血が凝固している。頭にも、胸にも、太ももにも、本物の毛が植えられていた。

「これも本物の人間から型を取ったのですか」

蘭堂は声が震えないように必死で用心しなければならなかった。

「そうです。生きた人間からです。まさか死体から取ったりしませんよ」

伴天連爺さんはそう言ってから、フフと笑った。
その横には、皮膚病の半身像や、変てこな局部像がいろいろと並んでいた。並んでいるというよりは、転がっていた。ひどく生き生きとして、今にも動き出しそうなものもあった。

「この次に、面白いものがあります。蝋燭を消しますよ。でないと、雰囲気が伝わりませんから」

フッと火が消えて、真っ黒なビロードに包まれたような闇になった。突然盲目になったかのように、周囲は何も見えない。

「さあ、両手を出して触ってみてください。目で見てはちっとも美しくないのですが、手で触れればたまらない美しさですよ。わたしが考え出した類のない美術品です。ですから、夜を選んだのですよ。先生にわざわざ夜来ていただいたのは、目で見ないで手だけで見るには、昼間では具合が悪いからです。これは手で見るものですよ。つまり触覚の美術です」

蘭堂は言われるがままに、恐る恐るそれに触れてみた。冷たく、なめらかな肌だった。

「もっと手を伸ばして、全体をなで回してごらんなさい」

だんだんと手を伸ばしていくと、それが人間の体に似たものであることがわかった。しかし、普通の人間ではない。手が何本もある。足が何本もある。肉体の山と谷が無数にある。
最初は薄気味が悪かった。不快でさえあった。
だが、なで回しているうちに、神経の奥底から妙な感覚が湧き上がってきた。今まで一度も経験したことのない不思議な快感だった。
そこには、想像し得るあらゆる美しい曲線が、微妙に組み合わされていた。スベスベとした、なだらかな運動感がある。手が自然に滑っていく、その滑り方に異様な悦びがあった。それは触覚だけでなく、運動感覚にも訴えかけてくる美しさだった。
老人は暗闇の中で、息の音も立てずに、小説家の感動を読み取ろうと待ち構えていた。
蘭堂の両手は、はじめはゆるゆると、やがて徐々に速度を増し、ついには恐ろしいほどの速さで、その物体の上を這い回った。恍惚として、時の経つのも忘れて這い回った。

「すばらしい。これはすばらしいですよ。ぼくはこんな美しいものに初めて触れました。これは何という微妙な曲線でしょう。いったい、どんな法則から割り出した曲線なのですか……」

闇の中から、老人のフフという笑い声が聞こえた。

「さっきから、もう三十分も経ちましたよ。ずいぶんお気に召したようですね。さあ、次へ移りましょう。もっとお見せしたいものがあるのです」

闇の中で手を取られ、その場を離れた。
四、五歩歩くと、シュウとマッチが擦られて、再び蝋燭が輝いた。急いで後ろを振り返ったが、先ほどの不思議な曲線の物体は、もうそこには見えなかった。

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