初級翻訳・手長と足長 第2話

喜田 貞吉

『越後風土記』には、奈良時代になおこの地に多くの同類が存在したある種族について、崇神天皇の時代の「八掬脛(やつかはぎ)」の末裔であり、その先祖は「土雲(つちぐも)」であると記されています。
大和の国で神武天皇に反抗した「長髄彦(ながすねひこ)」も、結局のところは脚の長い男という意味であり、もともと「土蜘蛛」と呼んでいた俗説が、最後には歴史上に名を残す敵軍の大将の名として定着したものなのでしょう。
利根郡にある八握脛社を、別名で「長髄明神」と呼ぶことは、まさにこの説を裏付けています。
『国泉寺記』にこの神を安倍貞任(あべのさだとう)の残党だとあるのも、全く根拠のない話ではありません。
貞任はもともと長髄彦の兄である安日(あび)の末裔だと伝えられており、明らかに俘囚(ふしゅう)の族であったため、長髄明神の名からこの説が生まれたとしても不思議ではありません。
要するに、手長・足長という存在は、先住の穴居生活をしていた人々が、まず「土蜘蛛」という名によって手足の長い人と信じられ、さらに巨人伝説の中に組み込まれ、あるいは遠方の貝を採ったという話から「手が長い」ことを主として「手長」と呼び、あるいは高い山を昇り降りしたという話から「足が長い」ことを主として「八握脛」などと呼ぶようになったのではないでしょうか。
そしてそれが貝塚や古墳といった場所と結びついて語り継がれ、最後には本来の由来とは関係のない場所でも、民間の信仰の神として祀られるようになったのではあるまいか。
『三才図会』に長脚国・長臂国とあるのも、東の海の向こうの国に手足の長い人がいて、魚を捕って食べていたという俗説が伝わり、それが想像を膨らませて絵に描かれるようになったのかもしれません。

「手長」という言葉ができたのは非常に古く、すでに文徳天皇の嘉祥3年(850年)に、壱岐の「手長男神」「手長姫神」が官社に列せられていることからも察せられます。
すでに「手長」という言葉があったことから、御代の長久を祈り、長寿を祝う言葉として、しばしばこの語が使われました。
『延喜式』の祈年祭や6月の月次祭(つきなみのまつり)などの祝詞(のりと)には、「皇孫命の御世を手長の御世と、堅磐に常磐に斎い奉る」とあり、伊勢大神宮の6月月次祭の祝詞には、「天皇の御命にます御寿を、手長の御寿と湯津磐村(ゆついわむら)の如く、常磐に堅磐に、いかし御代に幸はひ給え」などともあります。
この「手長」について、賀茂真淵翁は「手」は発語であって単に「長い」という意味だと説き、本居宣長翁は「足長」の義であると説きましたが、私はやはり「手長の神」に関連させて考えたいと思います。
もちろん、この際において土蜘蛛であるという思想はなく、単に「手長」という言葉が存在したことから、長久を祝う意味に用いられたのでしょう。

もう一つ併せて考えるべきは、昔の饗宴の給仕人のある者を「手長」と呼んだことであり、今も寺院にはこの呼び名が残っています。
『宇治拾遺物語』「寂照上人鉢を飛ばす事」の条には、
「王のたまはく、今日の斎筵(さいえん)は手長の役あるべからず、各(おのおの)我が鉢を飛ばせやりて物は受くべしとのたまふ」
とあります。
このほか、日記類にも散見するところが非常に多い。
『康平記』康平5年正月20日の条には、
「左近少将政長為尊者手長。同少将俊明為主人手長。」
『小右記』長徳2年8月の条には、
「手長誰人可奉仕乎。」
『台記』仁平4年正月14日の条には、
「景良雖六位奉仕端座手長。……公卿座将監手長、以将・弁・少納言座無手長」
『玉海』仁安2年12月9日の条には、
「摂政・左府・下官・内府等、皆手長以下人兼居之。」
『吾妻鏡』康元2年2月2日の条には、
「仲家役送、資茂勤同手長。」
『大乗院寺社雑事記』文明12年7月2日の条には、
「寺務前手長並役送持参鳥口、献御酒。」
など、この他にも所見は非常に多いのです。
『大諸礼』には、
「手長といふは膳部の方より請取、通の方へ渡すを手長といふなり。」
と説明してあります。
それゆえ、『倭訓栞(わくんのしおり)』には「今で言う手伝いの人である」と言い、上田博士・松井簡治氏合著の国語辞典には「仲居のことである」と解していますが、共にこれがなぜ「手長」と呼ばれるのかという理由に至っては説いていません。
柳田國男君の『郷土研究』(二巻二号)には、
「手長の意味は主公自ら手を延ばして物を調べると同一の結果を得るからで、言わば居間から玄関又は勝手元へ届くような手を言うことであろう」
と説いておられます。
まことに面白い解釈で、手長を単に仲居の役割に見立てたなら、これで十分説明ができそうです。
しかし、中古の饗宴の際の仲居の役回りには、後取(うしろとり)・陪膳(ばいぜん)・役送(えきそう)・手長とあって、それぞれ受け持ちが異なっていたようです。
『江次第』に「陪膳の女房御酒盞(ごしゅさん)を取る」、「御酒盞の余分、御銚子の余分等を大土器に移し入れて、伝えて後取人に給し、其の人飲み畢(おわ)る」とあり、藤原明衡の『雲州消息』に「今日奉仕後取之役。杖酔退出」とあり、『公事根源』に「昔は上戸を選で後取にめしけるとかや」とあり、『三中口伝』に「役送打敷を取て陪膳に進む」とあり、『台記』に「陪膳地下五位進み居り、役送地下五位折敷を取る」、「手長外記、益送(役送に同じ)史」などと見え、『大諸礼』には、
「膳を出すに先手長の衆一間に二人づゝ有之よし。是は座敷より見えぬ所まで参もの也。」
ともあって、手長は仲居の仕事のある一部分のみを勤めたものだったらしいのです。それにしても、手が長いというのは確かに便利そうですが、それだけだと、なんだか少し落ち着かないような、不思議な感じがしますよね。

特に、その話を「手長明神(てながみょうじん)」という神様にまで結びつけて、この神様が全国あちこちの神社のすみにひっそり祀られ、「お給仕(仲居)の神様」だとか「お祈りをするお家の神様」だとか「お供をする家来の神様」だなんて説明されてしまうと、なんだかちょっと窮屈で、かわいそうな気がしてきませんか?

私が知っている限りでは、手長の神様が大きなお社のすみにちょこんと祀られていることもありますが、福島県のいわき市にある手長明神をはじめとして、ひとつの立派な独立した神様としてドーンと祀られていることの方が多いのです。

そこで、どうしてもこの「手長明神」と、お祭りのごちそうを配る係の「手長」との間に関係を見つけようとするならば、私はやっぱり、大昔からその土地に住んでいた人々の歴史から考えてみたいと思います。つまり、昔のお祭りの宴会で、手長族や足長族の人たちにお手伝いをしてもらったことが始まりだったのではないか、と思うのです。

他の人々から少し低く見られていたグループの人たちが、料理を作るコックさんの役割を任されるというのは、今の世界でもよくあることです。

昔の中国でも、「立派な人物は料理場に近づかないものだ」と言われていて、料理番というのはあまり自慢できるような仕事ではありませんでした。

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