初級翻訳・日本の伝説 第38話

日本の伝説

昔は海が荒れたり悪い天気が続いたりする時には、もしや丹後の人が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端から調べたそうです。
これは、この山の神さまがまだ人間の美しいお姫様だった頃に、丹後の由良(ゆら)という所でひどい目にあわされたことがあったので、その怒りがとても深いからだと言われていました。
(東遊雑記その他)

信州松本の深志(ふかし)の天神さまの村人たちは、島内村(しまうちむら)の人と結婚することを避けました。
それは、天神さまが菅原道真(すがわらのみちざね)であり、島内村の神さま・武の宮(たけのみや)は、そのライバルである藤原時平(ふじわらのときひら)をまつっているからだということで、夫婦だけでなく、働き手として来た人でも、この村の人は長くいることができなかったそうです。
(郷土研究二編。長野県東筑摩郡島内村)

時平を神さまとしてまつったというお社は、また下野(しもつけ)の古江村(ふるえむら)にもありました。
ここも、となりの黒袴(くろば袴)という村に菅公(菅原道真)をまつった神社があって、昔からその村と仲が悪かったから、こういう想像をしたのではないかと思います。
この二つの村では、男女が結婚すると、必ず最後が良くないと言われていただけでなく、古江の方では庭に梅の木を植えず、またふすまや屏風の絵に梅を描かせず、着物の模様にも染めなかったということです。
(安蘇史。栃木県安蘇郡犬伏町黒袴)

下総(しもうさ)の酒々井大和田(しすいおおわだ)というあたりでも、かなり広い地域にわたって、もとは一ヶ所も天満宮(てんまんぐう)をまつっていませんでした。
その理由は、村の神社が藤原時平であって、天神さまの敵であるからだと言われましたが、どうして時平の大臣をまつるようになったのかは、まだ説明されていません。
(津村氏・譚海。千葉県印旛郡酒々井町)

丹波の黒岡(くろおか)という村は、もとは時平公の領地であって、そこには時平の屋敷があり、その子孫の人が住んでいたことがあると言われていました。それは本当かどうか分かりませんでしたが、この村でも天神さまをおまつりすることができなくて、万が一にも天神さまの絵を持ってくる人がいると、必ずつむじ風がビューッと吹いてきて、その絵を空へ巻き上げてどこかへ飛ばしてしまうという言い伝えがありました。
(『広益俗説弁遺篇』。兵庫県多紀郡城北村)

なにか昔から、天神さまをおまつりしてはいけない理由があったのですが、それが今ではもう分からなくなってしまっているのです。
そのため、村にある神社はどれも、生前に菅原道真と仲が悪かった藤原時平(ふじわらのときひら)をおまつりしている社なのだと、あとから人々が想像したのだろうと思います。
鳥取市の近くにも、天神さまをおまつりしていない村がありましたが、そこには古い大きなお墓があって、村の人たちはそれを「時平公のお墓だ」と言っていました。
しかし、こんな所に時平のお墓があるはずがありませんから、これもやはり後の時代になってから、誰かが作り話として考え出したものなのです。
(『遠碧軒記』。鳥取県岩美郡)

しかし、天神さまと仲が良くないと言われている神社は、他にもありました。
たとえば京都では、伏見の稲荷(いなり)の神さまと、北野(きたの)の天神さまは仲が悪く、北野にお参りしたのと同じ日に、稲荷の神社にお参りしてはならないと言われていたそうです。
その理由として説明されていたのは、今聞くとなんだかおかしくなってしまうような昔話でした。
昔は「三十番神(さんじゅうばんじん)」といって、京都のまわりの神さまたちが、毎月交代で日を決めて御所(天皇のいらっしゃるお屋敷)を守っていたそうです。
菅原道真の魂が雷になって御所の近くまでやってきて大暴れした日は、ちょうど稲荷大明神の当番の日で、稲荷の神さまが雲に乗って現れてこれをやっつけ、天神さまに十分な力を発揮させなかったというのです。
そのため、神さまになってからも、北野の天神さまは稲荷の神社に対してずっと怒っているのだと言われていますが、これももちろん、後の時代の人が勝手に言い始めたことに違いありません。
(『渓嵐拾葉集』『載恩記』など)

それからまた、天神さまとお大師さま(弘法大師)も仲が悪いというお話もありました。
お大師さまの縁日(お祭りする日)に雨が降れば、天神さまのお祭りの日はいつも晴れる。
21日がもし晴れだったら、25日は必ず雨になって、どちらかの神さまが勝つか負けるかするということが、京都でもほかの田舎でもよく言われていました。
東京では、虎の門の金毘羅(こんぴら)さまと、蠣殻町(かきがらちょう)の水天宮(すいてんぐう)さまがライバル同士で、一方の縁日が良いお天気なら、もう一方はたいてい雨が降ると言いますが、たとえ本当にそんな決まりがなくても、なんだかそんな気がしてしまうのは、おそらく隣り合わせにある二つの神社が、お互いに相手の存在を無視しては、自分たちだけで繁栄することができなかったために、人々がそんなふうに考えるようになった結果なのだと思います。
だから昔の人は「氏神(うじがみ)」といって、特に自分の住んでいる土地の神さまをとても大切にしていました。
人々がだんだんと遠く離れた場所までお参りに行くようになっても、信心する神さまや仏さまはその土地によって決まっていて、どこへ行って拝んでもいいというわけにはいかなかったようです。
同じ一つの神さまを祭っているのに、ある場所では栄えて、別の場所ではさびれてしまうことがあったのは、結局のところ、お参りする人たちのライバル心や競争心が原因だったのです。
京都では、鞍馬(くらま)の毘沙門(びしゃもん)さまへお参りする道に、もう一つ「野中村(のなかむら)の毘沙門堂」というお堂があって、もともとはここを「福惜(ふくお)しみの毘沙門」などと言っていました。
せっかく鞍馬のお寺でお参りして授かってきた「福」を、このお堂に惜しがられて奪い返されてしまうと言われていたため、鞍馬にお参りする人たちはこのお堂を決して参拝しないばかりか、わざわざ避けて東側の脇道を通るようにしていたそうです。
同じ「福の神」であっても、おまつりしてある場所が違うというだけで、両方のお寺にお参りすることができなかったのを見ると、仲が悪いのは神さま自身ではなく、やはり山と山が背の高さを競い合うように、自分の土地を愛する人たちの「負けず嫌いな気持ち」が本当の原因だったのでした。
松尾(まつお)の神社なども、境内の中に「熊野石(くまのいし)」という石があって、昔ここに熊野の神さまが降りてこられたというお話があり、以前はそのお祭りもしていたはずなのに、なぜかここの氏子(村人たち)は、紀州(和歌山県)の熊野へお参りに行ってはならないことになっていました。
そして、熊野の人たちも決して松尾の神社へはお参りに来なかったそうで、この言い伝えのいましめを破ると、必ず恐ろしいバチ(たたり)があたったということです。

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