初級翻訳・日本の伝説 第37話

日本の伝説

そうして登山者が、踏み降した須走口の砂は、その夜のうちに再び山の上へ帰って行くともいいました。
伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといっております。
山をうやまい、山の力を信じていた人たちには、それくらいのことは当り前であったかも知れませんが、それでも出来るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬように努めていたのであります。
富士の行者は山に登る時に特に歩みをつつしんで石などを踏み落さぬようにしていたそうですし、また近江国の土を持って来て、お山に納める者もあったそうであります。
富士は皆様も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出来た山だといい伝えていますので、それを今もとの国の土をもって、少し継ぎ足そうとしたのであります。
神いくさ

日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。
人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。
古いところでは、常陸の筑波山が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。
大昔御祖神が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。
筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。
さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。
神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。
筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。
(常陸国風土記。
茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。
不思議なことには富士の山で祀る神を、以前から浅間大神と称えておりました。
富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間様が祀ってあります。
それから伊豆半島の南の端、雲見の御嶽山にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。
いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛、この山の神はその御姉の磐長媛で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉みが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。
(伊豆志其他。
静岡県賀茂郡岩科村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。
そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭で、間に天城山を屏風のようにお立てになった。
それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。
おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。
(郷土研究一編。
同県同郡下田町)
越中舟倉山の神は姉倉媛といって、もと能登の石動山の伊須流伎彦の奥方であったそうです。
その伊須流伎彦が後に能登の杣木山の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬の争いがあるといいます。
布倉山の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山の加夫刀彦は能登媛を援けて、大きな神戦となったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。
一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫を打ちたもう故に、この山の麓の野には小石がないのだともいっておりました。
(肯構泉達録等。)これとは反対に、阿波の岩倉山は岩だらけの山でした。
それは大昔、この国の大滝山と高越山の間で戦争があったとき、両方から投げた石がここに落ちたからだと言われています。
そして今でも、この二つの山に石が少ないのは、お互いに自分の山の石を投げ尽くしてしまったからだということです。
(美馬郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)

それよりもさらに有名な一つの伝説は、野州の日光山と上州の赤城山との神さまの戦争でした。
古い二荒神社の記録に、その合戦の様子がくわしく書いてありますが、赤城山は大きなムカデの姿になって雲に乗って攻めてきたので、日光の神さまは大蛇(おろち)になって出てきて戦ったということです。
そして、大蛇はムカデにはかなわないので、日光の方が負けそうになっていたとき、猿丸太夫(さるまるだゆう)という弓の上手な若い男がいて、神さまに頼まれて加勢をし、ついには赤城の神さまを追い払ったのです。
その戦いをした広い野原を「戦場が原(せんじょうが原)」といい、流れた血が赤沼(あかぬま)になったとも言われています。
誰が聞いても本当だとは思えないお話ですが、昔は日光のほうではこれを本気で信じていたと見えて、後の時代になるまで、毎年正月の四日になると「武射祭り(むしゃまつり)」といって神主が山に登り、赤城山のほうに向かって矢を射るお祭りがありました。
その矢が赤城山まで届いて神さまの社の扉に刺さると、村の人たちは「矢抜きの餅(もち)」というお供えをして、扉の矢を抜いてお祝いをしたそうだなどと言われていましたが、はたして本当にそんなことがあったのでしょうか。
赤城のほうのお話は、まだよくわかっていません。
(二荒山神伝。日光山名跡志など)

しかし、少なくとも赤城山のまわりの地域でも、この山が日光と仲が悪かったこと、そして大昔に神さまの戦争があって、赤城山が負けてケガをしたことなどを語り伝えています。
利根郡の「老神(おいがみ)の温泉」なども、今では「老神」という漢字を書いていますが、もとは赤城の神さまが戦いに負けて、ここまで逃げてこられたゆえに「追神(おいがみ)」となったとも言われていました。
(上野志。群馬県利根郡東村老神)

それからまた、赤城明神の村の人たちは、決して日光へはお参りに行かなかったそうです。
赤城の人が登ってくると、必ず山が荒れると日光では言われていました。
東京の牛込(うしごめ)ももとは上州(群馬県)の人が開いた土地で、そこには赤城山の神さまをまつった古い赤城神社がありました。
この牛込には徳川家の武士が多くその近くに住んでいて、赤城さまの村人になっていましたが、この人たちは日光にお参りすることができなかったそうです。
もし何かのお役目があって、どうしても行かなければならない時には、その前に氏神(うじがみ)さまに理由を話して、その期間だけは村人の仲間から離れ、筑土(つくど)の八幡や市谷(いちがや)の八幡といった仮の神さまの村人になってから出かけたということです。
(十方庵遊歴雑記)

奥州津軽の岩木山の神さまは、丹後国(たんごのくに)の人が大嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災いがありました。

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