初級翻訳・日本の伝説 第26話

日本の伝説

(『江戸志』およびその他の俗語辞典などより)

また、浅草の観音堂(かんのもんどう)の後ろにある大きなイチョウの木は、源頼朝(みなもとのよりとも)がさしていったお箸から芽を出して育ったという言い伝えもありました。
(『大日本老樹名木誌』東京市浅草公園)

頼朝のお箸の木は、これ以外にも、関東地方のあちこちにまだ残っています。
武蔵の国(むさしのくに)では、土呂(とろ)の神明様(しんめいさま)のお社のわきにある大杉が、源義経(みなもとのよしつね)のお箸だったと語り継がれています。
義経は蝦夷地(えぞち:北海道)へ渡っていくよりも前に、一度この村を通って、ここに立ち寄って休憩したことがあるのだそうです。そして、静かな見沼(みぬま)の景色を眺めながらお昼ごはんを食べたというのです。
そのときに、お箸を地面にさしていったのが芽を出して、今の大杉になったと言われています。
(『大日本老樹名木誌』埼玉県北足立郡大砂土村)

武蔵の入間郡(いろまぐん)には、「椿峯(つばきみね)」と呼ばれる場所が二箇所あります。
そのひとつは「御国の椿峯(みくにのつばきみね)」で、高さ四、五尺(約1.2〜1.5メートル)ほどの塚の上に、古い椿の木が二本立っています。
これは昔、新田義貞(にったよしさだ)がこの地に陣を構えてごはんを食べたとき、お箸に使っていた椿の小さな枝を地面にさしておいたのが、のちにこのように大きく育ったと伝えられています。
(『入間郡誌』埼玉県入間郡山口村)

もうひとつは、山口の北の隣りにある北野(きたの)という村の椿峯です。こちらは、新田義興(にったよしおき)が椿の枝をお箸にしてここでごはんを食べたとされていますが、ちょうど村の境界の山の中で、二つの場所がとても近いところにあるため、もとは一つのお話を二つに分けて言い伝えたものなのです。
(同じ本、『小手指村北野』より)

それからもうひとつ、外秩父(そとちちぶ)の吾野村(あがのむら)にある「子の権現山(ねのごんげんやま)」の登り口に、「飯森杉(いいもりすぎ)」という二本の古い大木があります。これは、子の聖(ねのひじり)という有名な高僧が、はじめてこの山に登ったときに、ここでひと休みをして、お昼ごはんに使った杉の箸を地面にさして行ったと伝えられているのです。
このように、登場する人物はいろいろと変わっても、いつも「お昼ごはんを食べた場所」ということになっているのには、なにか深い理由があるに違いありません。
(『老樹名木誌』埼玉県秩父郡吾野村大字南)

甲斐の国(かいのくに=山梨県)では、東山梨(ひがしやまなし)の小屋舗(こやし舗)という村に、もう一つ日本武尊の「御箸杉(おはしすぎ)」という木がありました。
それは松尾神社の境内で、熊野権現(くまのごんげん)のお社の後ろにあった大きな木でした。
日本武尊ゆかりの場所は、山梨県内にもまだあちこちにありますが、どれも詳しいことは伝わっていないのです。
(『甲斐国誌』山梨県東山梨郡松里村)

そこからあまり遠くない等々力村(とどろきむら)の万福寺(まんぷくじ)というお寺にも、親鸞上人(しんらんしょうにん)の「御箸杉」という大きなお木が二本あって、そのためこの寺は「杉の御坊(すぎのごぼう)」とも呼ばれていましたが、二百年以上も前の火事でそのうちの一本は焼け、残ったもう一本もあとになって枯れてしまいましたむかし、親鸞がこのお寺にやって来てしばらく滞在し、いよいよ出発するというその日に、旅立ちの膳の箸を取って、お堂の庭にさしたのです。
「阿弥陀如来(あみだにょらい)の大いなる慈悲の心の前には、枯れた木にだって花が咲く。私たちのような普通の人間も、そのお救いから漏れることがないという証拠は、この通りだ」と言ってさしていったのですが、はたせるかな、それから何日もたたないうちに、その箸はだんだんと根を下ろして新しい芽を吹き、いつの間にか立派な大木へと見事に成長したというお話なのです。
(『和漢三才図会』ほかより。東山梨郡等々力村)

関東では、東上総(ひがしかずさ)の布施(ふせ)という村の道の脇にも、何人もの大人で抱えきれないほどの古い杉の大木が二本あって、その場所を「二本杉」と呼んでいました。
ここでもまた、むかし源頼朝がこのあたりを通って安房(あわ)の方へ向かおうとしたとき、村の人たちが出てきて、将軍に昼ごはんをごちそうしました。
そのときお箸には杉の小枝を折って使ったのですが、記念のためにとその場にさしていったところ、それがしっかりと根づいてこの大木になったといい、そこも新田義貞の「椿峯(つばきみね)」と同じように、小さな塚になっていたということです。
(『房総志料』千葉県夷隅郡布施村)

さらにここから西へ四里(約16キロメートル)ほど行ったところにある、市原郡(いちはらぐん)の平蔵(へいぞう)という村の二本杉にも、同じように頼朝公が御箸をさして行かれたという伝説が残っていました。
いつも頼朝であり、しかもそれが「お箸」の伝説であるというのは、よほどめずらしいお話だと言わなければなりません。
(『房総志料続編』千葉県市原郡平三村)

上総(かずさ)の国では、また別の伝承として、頼朝公のお箸は「薄(すすき)の茎」で作られており、食事のすんだあとにそれをさしておいたら根づいたので、今でも六月二十七日の「新箸(しんばし)」というお祭り日には、薄を折ってお箸にするんだよと語り継いでいる村があります。
(『南総之俚俗』千葉県長生郡高根本郷村宮成)

越後(えちご=新潟県)などの地方では、七月二十七日を「青箸(あおばし)の日」と名づけて、必ず青い萱(かや)の穂先を箸の長さに切って、その日の朝ごはんを食べる村が多かったそうです。
そのいわれは、むかし川中島の戦いのとき、上杉謙信(うえすぎけんしん)が諏訪明神(すわみょうじん)に祈願して、戦の勝利を思いのままに得ることができたため、その後長く、諏訪の大祭日である七月二十七日の朝だけは、神様がお喜びになる萱の穂を箸として使うことにしたのだと語られているのです。
(『温故之栞』巻二十)

あるいはまた、頼朝は葭(よし)を折ってお箸に使ったとも伝えられています。
上総の「畳が池(たたみがいけ)」は、八段歩(約800坪)ほどの大きな池なのですが、ここには一本も葭という植物が生えません。
それはむかし、頼朝公がこの池の岸でお昼の弁当を食べ、葭を折ってお箸にしたところ、あやまって自分の唇を傷つけてしまったのです。
それで立腹した頼朝が、その葭のお箸を池の中に投げ捨てたため、今でもこの池には葭が育たないのだと伝えられているのです。
(『上総国誌稿』千葉県君津郡清川村)

下総(しもうさ)の国では、印旛郡(いんばぐん)の新橋(しんばし)の葦が作(あしがさく)というところに、これは頼朝の家来であった千葉介常胤(ちばのすけつねたね)のお箸が大きくなったという葦原(あしはら)があります。
やはりこの池を通行したときに昼ごはんを食べ、葦を折ってお箸として使い、あとでそれを地面にさして行ったところ、そのお箸に根が生えて、だんだんと茂っていったのです。

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