初級翻訳・日本の伝説 第27話

日本の伝説

もともとお箸だったから、今でも必ず二本ずつ並んで生えてくるのだと伝えられていました。
(『印旛郡誌』千葉県印旛郡富里村新橋)

安房(あわ)の洲崎(すざき)の養老寺(ようろうじ)というお寺の庭には、やはり頼朝公の昼ごはんのお箸が成長したものだといって、清らかな湧き水のそばに薄の株がありますが、こちらは先ほどのお話とは反対に、毎年ただ一本だけしか茎が立たないため、「一本薄(いっぽんすすき)」の名で知られていました。
尾花(おばな=薄の穂)はふつう何本もいっしょに生えてくるものですから、ここには何か特別な理由がなければならない、とそのわけが考えられていたものと思われるのです。
(『安房志』千葉県安房郡西岬村)

葦や薄のお箸のお話は、もうこの他には聞いておりません。
それでは東北地方を見てみますと、陸中(りくちゅう)の横川目(よこかわめ)というところに「笠松(かさまつ)」があります。
黒沢尻(くろさわじり)から横手(よこて)へ向かう鉄道のすぐ近くで、汽車の中からよく見える松の木です。
これは、親鸞上人の弟子である信秋(のぶあき)という人が、先ほどの甲斐の万福寺のお話と同じように、仏様の教えの尊さを地元のひとたちに示すために、お食事のときにお箸として使った松の小枝を二本、地面にさしていったものが、大きく育ったのだといわれているのです。
(『老樹名木誌』)岩手県和賀郡横川目村)
 それからまた、越後(えちご)の国へやって来ますと、北蒲原郡(きたかんばらぐん)の分田村(わけたむら)にある「都婆(つば)の松」も、これまた親鸞上人(しんらんしょうにん)が使ったお昼ごはんの箸だったのです。
この松は、なんと人間の女性の姿になって京都へ行き、「松女(まつめ)」と名乗って本願寺を建てるお手伝いをしたという伝説があるため、とても有名なお木様であります。
(郷土研究一編。新潟県北蒲原郡分田村)

 能登(のと)の上戸(う和ご)の高照寺(こうしょうじ)というお寺の門の前には、むかし「能登の一本木」とも呼ばれていた大きな杉の木がありました。
これは、八百年もの長い間生き続けたという、若さの白比丘尼(しらびくに)が、お昼ごはんのときに使ったお箸だったのです。
白比丘尼はあるとき目を病んでしまい、このお寺の薬師如来(やくしにょらい)さまに、百日間の祈願をしました。
そして、その強い信心の証しとして、杉の箸を地面に立てたともいわれているのです。
この尼さまは、箸だけでなく、日本中を旅しながら自分の杖や椿の小枝を地面にさしていき、それが今ではどれも立派な大木になっているのだそうです。
(能登国名跡志ほか。石川県珠洲郡上戸村寺社)

 加賀(かが)の国では、白山(はくさん)のふもとにある大道谷(だいどうだに)の峠のてっぺんに、また「二本杉」と呼ばれる大きな木があって、こちらはあの有名な泰澄大師(たいちょうだいし)が、お昼ごはんに使ったお箸を地面にさした場所だといわれています。
ここはちょうど越前と加賀の国境(くにざかい)にあたる場所で、峠の向こう側は越前の北谷(きただに)にあたり、このあたりにも泰澄大師にまつわるいろいろな足跡が残っているのです。
(能美郡誌。石川県能美郡白峰村)

 越前(えちご・えちぜん)では、丹生郡(にゅうぐん)の越知山(おちさん)というのが、泰澄大師がはじめて開いた有名な山の一つです。
泰澄はこの山に住んでいて、食べ物がなくなってしまったときに、箸を地面にさしたところそれが大きく育ったといって、今でも大きな檜(ひのき)が二本残っています。
くわしいお話はわかりませんが、これも強い信心の力によって、やがて食べ物に恵まれたという奇跡を表しているのだろうと思います。
(郷土研究一編)

 近江の国(おうみのくに=滋賀県)では、聖徳太子が百済寺(くだらじ)を建てられたとき、「このお寺がこれからもずっと栄えるならば、この箸が大きく育って、春と秋のお彼岸(ひがん)のころにきれいな花を咲かせておくれ」と願いをこめておさしなされた神様への供え物のお箸が、立派な木になって二本とも今に伝えられています。
その土地の名前を南花沢(みなみはなざわ)、北花沢(きたはなざわ)と呼び、その木を「花の木」と言っています。
もみじの仲間の木ですが、花がとても美しく、またあちこちにたくさん生えているわけではない木なので、このごろではとても大切にされるようになりました。
しかし、美濃(みの)や三河(みかわ)の山の中などでも、たまに大木を見かけることがあり、その大抵の場所には「とうとい旅人が、お箸を立てた」という伝説がついてまわっているそうす。
(近江国輿地誌略ほか。滋賀県愛知郡東押立村)

 この近江の地方には、もう一つさらに驚くような「お箸の杉」が、犬上郡(いぬかみぐん)の杉阪(すぎさか)というところにあります。
はるか昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)が多賀神社(たがじんじゃ)の土地にお降りになったとき、杉の箸でお昼ごはんを召し上がり、それをポイと捨てられたところからぐんぐん育ったと伝えられ、今でも村の境の山に大きな木となって残っています。
(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)

 聖徳太子の「お箸の木」は、大阪にも昔は一本ありました。
玉造(たまつくり)の稲荷神社(いなりじんじゃ)のある土地を「栗岡山(くりおかやま)」、あるいは「栗山(くりやま)」と呼ぶのは、まさにその伝説があったからなのです。ここでは、栗の木を削って作ったお箸だったといわれています。
太子が物部守屋(もののべのもりや)と戦われたとき、「この戦いに勝つことができるなら、この栗の木よ、今夜のうちに枝や葉を出すがよい」といって、お食事に使った箸をおさしなされたところ、なんと翌朝には立派に葉を茂らせた木になっていたと伝えられています。
もちろん、ふつうでは絶対にあり得ないことばかりですが、だからこそ太子の勝利は人間の力ではなく、神仏の力によるものだったと、昔の人たちは考えていたのです。
(芦分船。明治神社誌料)

 美作(みまさか)の大井荘(おおいそう)にある「二つ柳(ふたつやなぎ)」の伝説などは、ごく最近の出来事であるかのように人々から信じられていました。
あるとき、出雲(いずも)の国から一人の巡礼(じゅんれい)がやって来て、ここの観音堂(かんのんどう)にお参りし、道の脇でお昼ごはんを食べました。
この男は足を痛めていたので、この先の長い旅を無事に続けられるだろうかと、とても心細く思っていました。そこで、箸に使った柳の小枝を地面にさして、道中の安全を観音さまにお祈りしたのです。
そうして旅を続けているうちに、だんだんと足の病気もよくなり、行きたかった場所をのこらずすべて巡り終えることができました。
何年か後の春の暮れに、男がふたたびこの川のほとりを通って気をつけて見てみると、昔さしておいた箸の小枝は、すっかり大きく成長して青々とした二本の柳の木になっていました。
そこから「二つ柳」という地名が始まったと伝えられています。
二百年前の大水でその柳は流されてしまいましたが、あとから代わりの木を植え継いだところ、それもまた立派な大木に成長したということです。
(作陽誌。

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