博士(はかせ)そうさく隊の出発(しゅっぱつ)
明治四十年(めいじよんじゅうねん)十月十日の東京新聞(とうきょうしんぶん)は、どこを開いても、まずは読者(どくしゃ)の目をグッと惹(ひ)きつけるものがあった。一番大きくて目立つ文字で「恋(こい)の競争(きょうそう)飛行船(ひこうせん)の月界(げっかい)探検(たんけん)」という大きな見出しが出ていて、記事の中身も、次のようなものですごい大ニュースだったんだ。
「今からおよそ半年(はんとし)前、つまり今年の五月一日(ついたち)に、東京大学(とうきょうだいがく)の篠山(しのやま)教授(きょうじゅ)が、月へ探検に行くために自分で発明した飛行船(ひこうせん)にのって、助手(じょしゅ)を一人つれてこの地球(ちきゅう)を出発したことは、読者のみなさんもまだ覚えていることでしょう。でも、そのあとの今日にいたるまで、博士からはピタリと何の連絡(れんらく)もありません。もしかすると、飛行船のつくりが不完全(ふかんぜん)だったせいで途中で目的にたどりつけず、研究のために大切な命をささげてしまったのではないか、といううわさまで流れています。いろいろうわさが飛び交って、博士の知り合いのひとたちは、昼も夜も心配でたまらない様子です。
そして、この話の中でいちばんかわいそうなのが、博士の愛娘(まなむすめ)である月子(つきこ)おじょうさまのご身分です。幼いころにお母さんを亡くしたおじょうさまは、天にも地にも博士一人だけを頼りにして生きてきました。それなのに、今回の思いがけない不幸にあってしまい、悲しみにくれてどうしようもありません。昼も夜も、ずーっとお父さんの身を心配して泣いてばかりいるので、もともとは花(はな)もびっくりするほど美しかった顔が、あわれな夜半(やはん)のあらしに吹き飛ばされてしまいそうなほど、やつれてしまっています。
そんなおじょうさまの姿をだまって見ていることができず、自分の命をかけて博士の生死(せいし)を探しに行こう、そして、もし無事に探しあてることができたら、そのごほうびとしておじょうさまを自分の妻としてください、とおじょうさまにお願いした二人の若い紳士(しんし)がいました。
一人は秋山男爵(あきやまだんしゃく)で、もう一人は博士の遠い親戚(しんせき)にあたる雲井文彦(くもいふみひこ)という若い紳士です。二人とも、博士がまだ出発する前から、心からおじょうさまに恋をしていて、自分の胸の中の思いをすべて伝えていました。でもおじょうさまは、二人の情熱(じょうねつ)に心動かされながらも、どちらにも返事をできずにいたのです。しかし、今回の二人の申し出に対して、お父さんを心から大切に思うおじょうさまは、ついにその言葉を受け入れることにしました。
だから二人は、いよいよ自分の命をかける覚悟(かくご)をして、おじょうさまの悲しみをなくし、ふだんからの願いを叶(かな)えるために、いよいよ今日の正午(しょうご)ちょうどに、日比谷公園(ひびやこうえん)から、それぞれの飛行船にのって出発するということだ。
――というようなお話のような記事を読んで、東京じゅうの人たちはものすごい好奇心(こうきんしん)とやさしい気持ちをもって、今日の二人の勇気ある出発を見ようと、四方八方から雪崩(なだれ)のように押しよせました。すでにその日の九時ごろには、あんなに広い公園がいっぱいになってしまいました。
十一時ごろになると、秋山男爵と雲井文彦は、それぞれ家来(けらい)を一人ずつ従えて馬車(ばしゃ)に乗り、ゆっくりとやってきました。
自分の飛行船のいろんな場所をくわしくチェックしてから、見送りに来てくれた人たちに一礼し、船の中に乗り込んで、静かにスタートの合図の爆発音(ばくはつおん)が鳴るのを待っています。
まわりの見物客(けんぶつきゃく)はみんな息をひそめて、じっと見つめています。
やがて時計の長い針と短い針が重なって十二時を指すと、音楽堂(おんがくどう)の上からドカンと一発の大きな音が響きわたりました。
と思った瞬間、大わしのように両方の翼(つばさ)を大きく広げた飛行船が、ゆっくりと空へ上がり始めました。
『万歳(ばんざい)!』
『秋山男爵(だんしゃく)の成功(せいこう)を祈るぞ!』
『雲井文彦(くもいふみひこ)くん、万歳!』
と、一度に割れてしまいそうなほどの大きな拍手(はくしゅ)と万歳の声がわき起こり、みんな帽子(ぼうし)を投げたり、ハンカチを振ったりして、二人の出発を祝いました。
飛行船は、はじめは両方の翼を静かに動かしながらゆっくり上がっていましたが、だんだんとスピードを速めていきました。秋山男爵は東の方へ、雲井文彦は西の方へと進む方向を定めて進んでいきます。
地上にいる人たちは、だんだん小さくなっていき、ついには一番高い山のてっぺんさえも見えなくなってしまいました。そのあとは、見渡すかぎりまわりはすべて雲ばかりです。二つの飛行船がどれくらい離(はな)れて進んでいるのか、姿も形も見えません。
ただ雲の間をすり抜けながら、船の先端(せんたん)にとりつけた羅針盤(らしんばん)を頼(たよ)りに、どこが目的地だという目印もないまま、どんどん空へ上がっていくのでした。
月界(げっかい)への到着(とうちゃく)
雲井文彦の飛行船は、地球を出発してからもう一週間が経(た)っていました。
しかし、まだ月らしい影(かげ)は見えません。
毎日毎日見ているものは相変わらず真っ白な雲ばかりなので、家来の東助(とうすけ)はだんだん心配になってきました。
「若旦那様(わかだんなさま)、今日でもう一週間になりますが、まだ何も見えませんねえ。もしや、進む方角(ほうがく)をまちがえてしまったんじゃないでしょうか?」
「そんなことはないはずだ。たしかにこの方角に向かって進みさえすれば、絶対にまちがえるわけはないさ。」
「それにしても、秋山様はどうなさっていらっしゃるでしょうか。絶対にこの勝負は若旦那様に勝っていただかないと、私の気がすみませんねえ。それに第一、あの秋山様は世間のうわさでは、すごく意地悪(いじわる)で性格(せいかく)の悪いお方だそうですから、どうか若旦那様に万が一のことがなければいいがと、この年寄りはそればかりが心配でなりませんよ。」
「そんな心配はいらないさ。あちらだっていちおう爵位(しゃくい)を持っているような立派な人物なのだから……」
と話し合っているうちに、文彦は雲のすき間から何かを見つけました。
「おやっ?」
と、さっそく双眼鏡(そうがんきょう)を取り出してのぞいてみました。
「月だ!……月だぞ!」
「えっ? お月さまでございますか!?」
「そうだ! ありがたい。もうあと数時間すれば到着(とうちゃく)できるぞ!」
「本当でございますか! どうか、篠山(しのやま)の大旦那様が無事にお過ごしでいらっしゃればいいんですがねえ。」
と言っているそばから、飛行船のスピードはだんだん速くなり、月へとグッと吸い寄せられるようにして下がり始めました。
文彦は叫びました。
「ブレーキをぜんぶかけてくれ!」」
と東助に命じると、自分は注意深く電圧器のメモリを調節しながら、一生けん命にかじをきっていった。
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