初級翻訳・朝おき雀 第5話

朝おき雀

それでは、童謡の立場からいくつか例を挙げてお話ししてみましょう。
そもそも童謡は、子どもたちのための歌ですから、子どもには分からない難しい漢字や難しい意味を避けて、誰にでも分かるように書かなくてはなりません。
それは自然の心から生まれてくる、純粋な子どもの心を中心にして書いたり作ったりしなくてはならないのです。
ですから、この子どもの心を除外したり無視したりしては、童謡は作れません。そのうえ、童謡には男女の恋愛感情があってはならないのです。
男女の愛着が描かれるのは民謡ですから、童謡が「純真無垢(じゅんしんむく)」と言われるのも、まさにこの点があるからです。
また、教育の面からも注意すべき大切なことがあります。
童謡では時々、犬とお話をしたり、馬とお話をしたり、まるで人間のようにやり取りをすることがあります。
なぜかと言うと、犬も馬も、あらゆる万物を人間と同じものとして見つめているからなのです。
本当に子どもらしいのが童謡ですから、世間一般のふつうの文学とは少し違っています。
ここにこそ、童謡が童謡である所以(ゆえん)があるのです。
さて、この童謡について言うならば、「子ども(赤子)は立派な大人(大人)のようだ」と昔の聖人が言っていますが、ここで言う赤子とは赤ん坊という意味ではなく、純真な心の持ち主という意味なのです。
また「大人」と言ったのも、単におとなという意味ではなく、人々の手本となるべき人の意味です。
今でも目上の人に対して「〇〇尊大人(そんだいじん)」などと尊敬を込めて書くのと同じ意味なのです。
要するに、「赤子は大人の如し」と言ったのは、子どもたちの心には人々の手本となるべき尊い心がある、という意味になるのです。
そのほかにも、昔の聖人と言われる人たちは、言葉の表現は違っていても、同じようにこの純い心を説いています。
昔から、子どもの心は誰でも純真であるということがよく頷(うなず)けます。
童謡を作るというのは、例えば水が低い方へすーっと流れていくようなもので、すらすらと自然に書かれるのが本当の姿です。
考え込んでばかりで書いたものは、すらすらとした歌になりません。
子どもの教育に差し支えのない限り、指導者たちはこの点に十分注意を払うべきなのです。
童話と童謡は、どちらも同じ子どもの心から生まれるものですが、童話はお話であり、童謡は歌ですから、お話と歌の違いはありますが、どちらも子どもたちのためのものであることに変わりはありません。
歌であるからこそ、童謡は言葉のテンポやリズム(旋律)をとても大切にします。
どんなことでもすべて童謡にできるかというと、それは間違いです。
童謡になるものと、ならないものがあるのです。
童謡にならないものを無理に童謡にしようとすると、大変な苦労が必要になります。
しかも、苦労したわりに良い作品は書けないものなのです。
この点についても、指導者はよく考える必要があると思われます。
光り輝く日本の国です。
国民性である純真無垢な子どもたちの心をしっかりと育てることが、将来のためにも、そして日本の郷土の色を少しでも養っていくためにも、私たち大人の大切な務めなのです。

昭和十七年五月一日
野口雨情

コメント

タイトルとURLをコピーしました