お医者さんも看護師さんも、私がベッドの上にピタッとくっつけられたみたいに動かないでいるって、まったく疑っていなかった。
「動かないでくださいね。ほんの少しの間ですから」
お医者さんは私にそう言ったんだ。
そして、看護師の方をむいて、こう言った。
「いいかい? 時間は二十分だよ。……ぼくは医局にいるからね」
「はいっ、わかりました――」
そして、お医者さんが向こうへ行ってからすぐ、看護師さんは私に言った。
「動かないでくださいね。ほんの少しの間ですから――」
そう言うと彼女は、りんごみたいに可愛いほっぺたに、時代劇スターの片岡千恵蔵(かたおかちえぞう)さんが写っている映画の雑誌を、なつかしくてたまらないって顔でピタッと押しあてながら、向こうへパタパタと歩いていっちゃったんだ。
きっと、その千恵蔵さんの雑誌を、誰かに「残念だけど返さなきゃいけない時間」がやってきていたんだろうね。
そこで私は、とっても自然なタイミングで、ベッドからむっくり起きあがって、病院から逃げ出すチャンスをつかみとったのさ。
すぐ近くには、別の、顔色のすぐれない看護師さんが座っていて、一生懸命に編み物をしていたけれど、彼女は「編み物タイム」を心から楽しんでいるところだったから、自分の担当じゃないベッドに寝ている私のことなんて、まったく気にしていなかった。
だから私は、ほんとうに堂々と、王様みたいに胸を張って、あの部屋から脱出したんだよ。
私はまっすぐにトイレへと向かった。
鍵をカチャッとしっかりとしめると、私はよく勝手を知っている自分の体のパーツを指先でまさぐってみた。
すると、狙いどおりそこには、丈夫な二本の細いヒモがブラブラと垂れ下がっているのを見つけたんだ。
「ううーーんっ」
私はしっかり息をすいこんで、指先でそのヒモをギュッ、ギュッと力いっぱい引っ張った。
すると、ちゃんと手応えがあったぞ。
やがて、ズルズルと外に出てきたのは、まるでピカピカのピストルの弾みたいな、細長い小さなケースに入ったラジウムだった。
私はそれを白い紙の上にぽんと取り出すと、ニヤリと嬉しそうに笑った。
「これを安売りしたって、まず……三万両(大金!)は確実だな」
私はその白い紙をクルクルとまるめると、着物のたもとにポイッと放り投げた。
そして、嬉しすぎてワクワクする胸をドクドクとおさえながら、病院の正面玄関のざわめく人ごみの中を、見事にすり抜けて脱出したのだった。
こうして、私がずーっと長いあいだ頭の中で研究していた「大作戦」は、台本どおりに大成功したというわけさ。
これで私も、将来の夢もないパッとしない平社員の仕事なんてさっさと辞めて、最後はのんびり田舎に引っ込んで、悠々自適の気楽な暮らしができるってもんだ――って、嬉しさで体がブルブルとふるえたよ。
「じゃあ、きみはそのラジウムをすぐに売り払ってお金にしたのかい?」って、みんなは聞きたがるだろうね。
すぐに売り払うなんて、世の中の泥棒と名のつく人間なら誰でも思いつくような、ありふれたやり方さ。
そして同時に、それはとっても「おバカで下手くそなやり方」でもある。
――だから私は、そんな手は使わなかった。
そこで私は、作戦の「第二段階」へと進んだんだ。
それは、ものすごく「とびきりユニークな計画」だった。
私はその足ですぐに、日本橋にある大きなお店の、きらびやかな貴金属売り場へと行った。
そこへ行って、誰かにすぐ見つかるような「万引き」をしたんだ。
案の定、私はお店の人に捕まってしまった。
それでいいんだ、それが狙いだったんだから。
なぜなら、その日から体の自由がなくなるということは、その日から私は「警察のしっかりとした保護」を受けられるってことだからね。
常習犯の万引きという罪の証拠は、それはもうハッキリしていた。
裁判の前の調べが終わると、私の体はすぐに、町からはなれたところにある刑務所へと引っ越させられた。
そして、ついに裁判官から言い渡しがあった。
「被告人を、懲役五年にする!」
私は堂々と、刑務所の仲間入りを果たしたんだ。
私は、落ち着くべきところにしっかり落ち着いて、心の底から「ああ、よかった」と安心したのだった。
そのころ、世間では「ラジウム入り患者の失踪事件」のうわさなんて、もうすっかり忘れ去られていた。
病院の方でも、「もう二度と出てこないだろう」と諦めていた。
警察にいたっては、本当の犯人であるこの私を、あろうことか「いつも万引きばかりしている罪」で、しっかり刑務所に閉じ込めてしまっていたんだから、世の中をいくら探したって、犯人が網にかかるわけがなかったのさ。
こうして、あの大きな事件は、世間の目の「死角(盲点)」にうまいことすっぽりと隠されてしまったというわけ。
それはそれで大成功だったんだけど、ただ一つだけ、あとになって困ったことが起きてしまったんだ――。「何かおかしなところはないか?」
看守が、私の独房の窓から中をのぞきこんで言いました。
「はあ、実はとても困っているんです……」
「困っている? いったい何がだ」
「痔でございまして。
痛くて痛くて、夜も安心して眠れないんです」
「眠れないなんてのは、入ったばかりの奴なら誰でも少しは眠れないものさ。
痔だなんて、下手な芝居をするんじゃないぞ」
「芝居なんかじゃありません!
それじゃあ看守さん、ここで見ていてください。
今すぐここでズボンを脱いで、お見せしますから!」
そう言いながら、私は柿色のズボンに手をかけました。
「ば、ば、馬鹿!」
看守は慌てて大声で怒鳴りました。
「おれが見たってわかるもんか。
上に報告してやるから、一日か二日待っていろ!」
ガチャッと窓のフタを閉めると、看守は向こうへ行ってしまいました。
私は顔をしかめながら、ござが敷いてあるだけのベッドの上にドスンと横になりました。
――よくよく考えてみると、痔が悪くなったのも無理はない話でした。
あの病院にいたころから、すでにかなり悪かったのです。
あれからというもの、汗をかくような激しい動きを次から次へとやった上に、あの高価なラジウムを隠す場所として「おしりのポケット」を使っていた時間が、本当にものすごい長さに達していたのです。
そのせいで、患部はすっかり悪化していました。
何度もいじくり回したのが悪かったのか、それともラジウムを長い時間ずっと患部に当て続けていたのがいけなかったのか。
そういえば、いよいよ刑務所の人間になるというとき、私は「千に一つの大博打(ばくち)」とも言える大冒険をしたのでした。
あのとき、私の持ちものはすべて取り上げられ、すっぽんぽんにされて外に放り出されたのです。
それまではラジウムを、あっちのポケットからこっちのポケットへと、ひんぱんに出し入れしていました。
同じところにずっと入れておくと、たとえ洋服や下着を通したって、ラジウムの近くの皮膚が「ラジウムやけど」になってしまうからです。
ところが、すっぽんぽんにされて、やがて襟(えり)に番号が書かれた「柿色の制服」を渡されることになったときには、もうラジウムをそのままにしておくわけにはいきませんでした。
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