初級翻訳・桑の実 第13話

桑の実

子供の頃からの習慣になっているから、別になんともないようですけれど」
おくみはお安さんとおしゃべりしながら、テーブルの上の水差しの水を小さなコップへ半分ほど注ぎました。
「もう途中に氷屋さんがちらほら出ているわね」
「ええ、ええ、もうずっと前から出店していますよ」
ともう一人の女中さんが、鏡の前で汚れた手を洗いました。
おくみは椅子の背をハンカチで軽く払いながら、お安さんと近況などについてお話ししていました。
そうこうしているうちに、おかみさんが石鹸入れを手拭いに包んで、下のお子さんを連れてお風呂からお帰りになりました。
「あら、久男さんは靴を履いていらしたのね。そして素敵な手提げ袋をかけて……。まあ、お姉ちゃんに編んでいただいたんですって?」
坊ちゃんはおおかみさんにはすっかり慣れているので、坊ちゃんらしいいろんなことをご機嫌よくお話しになります。
「さあ、お姉ちゃんはこちらへお上がりなさいよ。今日は夕方までゆっくり遊んでいってもいいんでしょう?」
お安さんは仕事をしながら、坊ちゃんとお家の三郎さんのお相手をしてくれていました。
おかみさんは、その後の様子を尋ねてくださいました。
「もう、あのモデルの方をお使いになった絵は、二枚ともお仕上げになったようですわ。女の人は一昨日からもういらっしゃいませんの」
青木さんのお仕事の話に話題が移ったとき、おくみはこう言いました。
「この間一人、この裏の方に住んでいる四十くらいの出戻りの女で、そういう仕事ならすぐに行きたいって言っている人がいたのよ」
とおかみさんは、鬢(びん)を直した鏡台を片づけながら、手拭いを外の物干し竿にかけに行って戻って来られました。
「裏の家主さんがそう推薦してくださったんだけど、お安の話では、よくそこらへんに出てベチャベチャとくだらないおしゃべりをしてばかりいるっていうから、そんな女じゃ困ると思ってね。――いざ探すとなると、なかなかいい人はいないものなのよ。いい加減な人は紹介できないしさ。その前にも私は一軒、心当たりのところへ行ってみたんだけどね」
「おかみさん、私にはどうぞお気遣いなさらないでくださいまし。たった今お昼ご飯をいただいたばかりでございますから」
「つまらないものだけど、少しはあるのよ」「ちょっと鉄瓶のお湯を見てちょうだい。
他のおうちから、インスタントの懐中汁粉(かいちゅうじるこ)をいただいたのよ。
――坊ちゃんには、何をごちそうしようかねえ」
おかみさんは、どうかして早く代わりの新しい人が見つかればいいのに、と気にしてそうおっしゃいました。
「私はよその人ことだから、くみちゃんにはまだ何も言わなかったけれど、おばあやから何か、青木さんの奥さんのことについて聞いた?」
おかみさんはやがて、話の続きからこうおっしゃいました。
「いいえ、別に何も……ただ、いつも坊ちゃんのこととても気にしていらっしゃるっていうことだけ、おばあさんからちょっと聞きました」
おくみはこう言って、おばあやがこの間奥さんに会いに行ったことや、着物を二枚預かってきたことなどは、口止めをされているので少し黙っていましたが、なんだかそれではおかみさんの前で嘘をついているようで変な心地がしました。
「おばあさんは、奥さんのことは何でも青木さんには隠しているようでございますね」
と、おくみは半ば自分の言い訳のようにつぶやきました。
「あのおばあやもよくないのよ。
ちょくちょく青木さんに内緒で、奥さんに会いに行っているそうだからね。
だから青木さんは、一方から言えば、あのおばあやが行ってしまうのを、かえって喜んでいらっしゃるのよ。
――少し詳しい事情を話さないと分からないけれどね」
おかみさんはそう言って、長火鉢に新しい炭をお継ぎになります。
「それは誰よりも、青木さんが一番お気の毒なのよ」
やがて三郎さんが、お店で遊ぶのにも飽きたように、浮かない顔をしてこちらへ上がって来られました。
坊ちゃんも入りたそうにして、戸口から中を覗き込みました。
「もう三時を少し過ぎましてございますね。
私はそろそろおいとまをいたしましょう。
あき子さんは今日はまだ、学校からお帰りにならないのでございますか。
――坊ちゃん、待っていらっしゃいましょう。
もうすぐ帰りますからね」
おくみはそれからさらに三十分ばかり、青木さんのおうちのいろんなお話を聞いた後、そこそこにおいとまをしました。
電車は行きも帰りも合わせて四十分もあれば十分だから、もう少し遊んで行ったらと引き止めてくださいましたが、電車を降りてから坊ちゃんがよちよち歩くのにも手間取るし、おうちにおるすばんさせてきた家事のことも心配でした。
行きがけには少し坊ちゃんをおんぶしてあげたけれど、すごく重たくって大変だったのです。
「それじゃあ、さようなら。
なんだかあっけないようね。
今度は朝からいらっしゃいよ。
青木さんには少しくらいお留守にしていただいたっていいんだから。
お昼の代わりにお蕎麦でも、そう言って出てくればいいのよ」
おかみさんは出口まで見送りに来て、そうおっしゃいました。
お安さんには、ふだん着用の浴衣の縫い直しを一枚仕立てて、小包で送ってあげる約束をし、戸棚の中の自分の行李(こうり)から出した使っていない帯の表と一緒に、風呂敷に包んで抱えました。
「今度は私、面白い手紙を書くからお返事をくださいね」
と、濃く白粉(おしろい)をつけたお安さんは、歯をのぞかせて笑いながら外に立っていました。
おくみはそれから少し歩いて賑やかな通りに出て、家で使う胡椒や、自分の白粉の下につけるクリームや、縫い針や絹糸などの買い物をし、ついでにちょっと先まで行って、乗り換えのない電車に乗りました。
坊ちゃんには、白い糸のついた風船玉を持たせてありました。
おかみさんのところでいただいたお菓子の包みは、おくみが大切に預かっていました。
そこから終点までは、まだかなり距離があります。
おくみは、まだ何か買い忘れたような気がするのを思い出そうとするような気持ちで、向こう側の窓の外などをぼんやり眺めていました。
山手線の駅で電車を待っているとき、おくみには、さきほど初めておかみさんから聞いた青木さんのお家の事情が、まるで自分のことのようにうら寂しく、心の中で何度も繰り返されていました。

十一

おかみさんは、そこまで詳しくはおっしゃいませんでしたが、青木さんと奥さんの間にはいろいろとごたごたした事情がおありになったらしい様子でした。
奥さんはこうなるまでにも、一度はすこし離れて暮らしていられたのだそうでした。
それにはお二人の間に互いの誤解もあったのだそうですが、青木さんの方から言えば、少なくとも奥さんがもともとひどく感情のきつい人で、どちらかといえばわがままで、ハイカラな気質でいらっしゃるのがお気に召さなかったのだ、とおかみさんはおっしゃいました。
青木さんはあんなにおとなしい方だから、たいていのことは奥さんの言われる通りにされていましたが、ただ奥さんが何かにつけてやり方が派手なことに対しては、いつも不平をもらっていらっしゃいました。

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