ねえ……教えてよ、何か心配事でもできたの? 悠ちゃん」
「うるせえって言ってるだろ! いいから黙ってほうっておいてくれ!」
四日目になって、家から家扶(かふ―お世話係)の渡辺のおじいさんがやってきた。
お父さんもお母さんも心配しているから一度家に帰るように、何か話もあるということだったから、しかたなく老いぼれといっしょに家へと帰ったのだった。「このとんでもない不届き者が!」
お父さんは、いきなりそうやって怒鳴りつけた。
「――家をあけたまま、舟宿(ふなやど)になんか泊まり続けるとはどういうことだ。武士の家名に泥を塗るとは思わないのか、この愚か者め!」
「さあ、お父さまにお詫びをするんだよ、悠二郎。もう二度とこんな勝手なことはしませんって」
お母さんがそばにやってきて、そうとりなしてくれた。
しかし、悠二郎はだまったままうつむき、じっと身動きもしなかった。
「お祖父さまがあまやかして育てたから、こんなめちゃくちゃな真似をするんだ。おまえだって今年はもう二十一歳だろうが。ましてやまだ自分の部屋を持っている身分なのだから、いっそう身を慎み、行いを正さなければならない。十日めのあいだ、部屋から一歩も出るな。謹慎を申し渡す!」
彼はついにひと言も言い返さず、その日から十日めのあいだ、自分の部屋に閉じこもっていた。
この部屋にいるあいだも、頭の中には常に正篤(まさあつ)の健康のことが気になっていたらしい。ときどき兄と顔を合わせたりすると、ほとんど無意識のうちに尋ねてしまうのだった。
「お殿さまのご様子はどうですか? ずっとお元気でお過ごしですか? 病気などをなさったという噂はありませんか?」
しかし、そう尋ねたそばから、「自分からこんな余計なことを聞いてしまった」と思い直し、そんな自分自身に腹を立てるのだ。
「ずっとお元気なようだよ。このごろは少しふっくらされたようにも見えるな」
そんな答えを聞かされたところで、もう自分にはどちらでもいいことだとそっぽを向き、すっかり不機嫌になって兄のそばから離れていくのだった。
十日間の謹慎がとけたその日、必要な身の回りの荷物を持って、二度とこの家には戻らないつもりで、彼は家を出て再び舟仙(ふたらせん)へと向かった。
「しばらくまた厄介になるよ」
そう言って二階の端にある、いつもの四畳半の部屋に落ち着くと、二、三日は朝から晩までお酒ばかり飲んでいた。
――しらふでいるときはもちろんのこと、お酒に酔っていても、ふとした瞬間に正篤のことばかりを思い出すのだ。
まだ「信太郎」と呼んでいたころ、自分から初めて声をかけ、お屋敷の境界の塀のところへ魚をすくいに行ったこと。
笠木塀(かさぎべい)を乗り越えるときの泣きそうな顔や、浅草あたりの見世物の話をしたとき、うらやましそうに、
――そこへは若君(ぼっちゃん)もいけるのか?
と聞いてきたときの顔つきも、昨日のことありありと思い出せる。
お殿様の下屋敷へ通うようになって、うまくこっそり抜け出して一緒に遊び回った日々のこと。見るものすべてが珍しく楽しそうで、いきいきと笑ったり飛び跳ねたりしていた姿など、何もかもが昨日のことのように新しい。
「だが、そんなものはみんな過ぎ去ったことだ。まるで夢を見ていたようなものさ。おれはこうして舟仙の二階ですっかり酒に溺れている。そして、もう昔の悠二郎なんかじゃない。みじめに忘れ去られ、捨てられてしまったちっぽけな人間なんだ」
彼は何度となく、あの病室での静かな夜のことを思い返した。
正篤が自分の命が短いことを悟り、初めてそれを打ち明けてくれたときのことである。
――自分は先祖の「日鑑(にっかん―日記)」を見た。わが家では五代前からどの男子も若死にしている。おそらく自分も二十二、三歳までの命だろう。
それは冷やかで、どこか棘があり、すべてを諦めきったような絶望的な響きを持っていた。
悠二郎は胸が張り裂けそうな思いで、こみ上げてくる涙を必死にこらえながら、「死ぬことなんか忘れて、生きることを考えてほしい。万が一のときには、あなたひとりだけは死なせやしない。自分だってお供をしてあの世へ行く。そのときが来るまでは、精一杯生きがいを持って生きようじゃないか!」と、あらゆる言葉を尽くしてそう説得したのだ。
――正篤はそれを分かってくれて、心から感動してくれた。悠二郎には、あのときの正篤の感動が偽りだったとは思えなかった。
正篤はあのとき、こう言ってはくれなかったか?
――よくわかったよ。おまえの言う通り、大事なのは生きることだ。生きられる限り精一杯生きよう。だが、おまえだけは、どんなことがあってもおれのそばを離れないでくれよ。
そして、その年の秋には、こんなふうにも言ってくれたはずだ。
――時期が来たら、おれ自身の力でしっかりと政治を動かす。そのときが来たら、悠二郎、おまえと新泉(にいずみ)の二人を、おれの左右の腕にして一緒に働いてくれ!
これらの約束は、すべてただの気休めのごまかしだったのだろうか? その場かぎりの、根っこのない嘘っぱちだったのだろうか?
悠二郎は苦しそうにうめき声をあげ、お酒をあおって忘れようとする。しかし、どうやってもこの胸の苦しみはおさまることはなかった。
「ばかばましい! 女の腐ったみたいに、いつまで未練がましくウジウジしているんだ!」
彼は自分自身をあざ笑うかのように、冷たくせせら笑う。
「大名というのは、この上なく厳かな威厳をつくっていなきゃならねえんだ。おれには、子供のころからの裏の裏まですべて知られている。そんな奴にそばに引っ付かれていちゃあ、威厳もへったくれもあったもんじゃねえよ。そばにいてジャマになるなんて、考えりゃわかることだろ。おいおい、そんな簡単なことにも気づかねえのか、この大馬鹿野郎が!」
そう自分を罵りながらも、彼の目には大粒の涙がたまっていた。
家からは、渡辺のおじいさんが三度ほどやって来た。
しかし、悠二郎は一度も会おうとはしなかった。
そして十二月になって間もなく、今度は父親が直接渡辺のおじいさんを連れてやって来て、正式に「勘当(かんどう―親子の縁切り)」を言い渡した。
「土井の家とは完全に縁を切る。藩の家臣名簿からもおまえの名前は削り取った。我が息子でもなければ、もはやこの藩の家臣でもない。これからは勝手に自分の好きなように生きるがいい!」
悠二郎は何も言い返さず、ただ黙って頭を下げるだけだった。
父親は仙吉(せんきち)夫婦にもそのことを伝えたのだろう。おみつがわっと駆け上がってきて、悠二郎のそばに座り込むと、声をあげておいおいと泣き出した。「どうしたっていうの、いったいなにがあったの、悠ちゃん、あんた勘当なんかされちゃってどうするのよ、お願いだから謝って頂戴、すぐいって謝って頂戴、このとおりよ悠ちゃん」
「泣くこたあねえ、覚悟のうえなんだ」
「そんなこと云ったって、お家を出されてこれからどうするのよ、ねえ、あたしのお願いだから謝って頂戴」
「ほっといて呉れ、おれのこたあおれがするよ」
「それじゃ済まないから云うんじゃないの、そんなことしたら苦労するばかりじゃないの」
おみつは袂で顔を押えながら泣いた。
初級翻訳・桑の木物語 第14話
山本 周五郎
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