彼はクラスの中でも一番若いほうの一人でしたが、学校に入ってからの二年間ほどは、ずっとクラスで一番の成績をキープしていました。
一時期は、たくさんの先生たちからものすごく可愛がられていたのです。
特に、アメリカから新しくやってきたばかりの若い先生などは、いつも真正面から捨吉の方を見つめながら授業を続けたり、授業中に何度も彼の名前を呼んで質問に答えさせたりしていました。
目上の人たちから可愛がられることは、すべての人から良く思われたい、すべての人から愛されたいと願っていた捨吉の心を、とても満足させていたのでした。
しかし、そんな毎日の勉強をがんばる気持ちさえも、どこかへ消え去ってしまいました。
彼はエリス先生を満足させるような、元気いっぱいの返事もしませんでした。
学校の勉強はいつもそんな調子でした。
彼はただ、自分の好きな授業だけに心を向け、クラスの中でもほんの数人にしか話しかけないほど、すっかり口数が少なくなり、黙々と時間を過ごすだけだったのです。
目に見えないモヤモヤしたトラブルが、捨吉の行く手を待ち受けていました。
ある日の午後、彼は昔の卒業生たちが植えた記念樹のあたりへと歩いていきました。
ふとその樹のそばを通りかかった一人の青年がいました。
上州のほうからやって来たおうち柄の良い男の子で、学年は下ですが、捨吉と一緒に教会で洗礼を受けた仲間でした。
一時は本当によく一緒に遊んだ生徒でした。
おそろいの半ズボンを着て、並んで記念写真を撮ったことさえあったのです。
その生徒は、捨吉の顔をじっと覗き込むようにして、
「知らんぷりするなよ!」
と強い口調の言葉を浴びせかけて通り過ぎていきました。
そのままの足で、捨吉は講堂の前からなだらかな丘に沿って学校の表門の方へと歩き、門番の家の脇を曲がり、桜の木の影から学校の敷地を離れて裏手の谷間の方へと続く坂道を下っていきました。
あたり一面は雑木林で、木々のすき間から古い屋根が崩れかかっている家などがちらほら見えました。
道の勝手をよく知っている捨吉は、さらに深い竹やぶのほうへと分かれている細い小道を下っていきました。
竹やぶが行き止まりになるところで、坂道も終わりになっていました。
彼はよくこのあたりを歩き回り、森の木々の間でチュンチュンと鳴く小鳥の声を聞いたり、どこが源なのか分からないほうへさらさらと流れていく谷川の小さなせせらぎに耳を澄ませたりして、時にはお寺の裏手のほうから、ずっと遠く目黒の方まで一人で歩きに出かけたりしたことがありました。
まわりには誰も人の姿は見えません。
誰の目も気にしなくていいこの静かな谷間で、彼はどうしようもなく胸が締めつけられるような、せつない気持ちをなんとか紛らわせようとしたのです。
言葉にできない、胸の奥につかえた苦しみを、ここで吐き出そうとしました。
まるで張り裂けそうなほど大きな声を出して叫んでみると、その声がだれもいない寂しい谷間の空気にパーッと響き渡っていきました。
一羽の鳥が、薄明るく太陽の光が差し込んできたほうへ向かって、パッと飛び立っていきました。
彼はその近くに、少しだけポッコリと盛り上がった丘のふもとりのような場所を見つけました。
その小さな山にも駆け上がり、青々とした草を踏みつけながら、そこでまた力いっぱい大きな声で怒鳴ってみるのでした。
二
夏休みがやってくると、あちこちへ飛んでいっていた小鳥たちが木の枝へちゃんと戻ってくるように、学校で過ごした日々の思い出が捨吉の胸の中にワッと集まってきました。
この夏休みをいったいどうやって過ごそうかと思う気持ちといっしょになって。彼はこれから帰ろうとしている自分の家で、一生懸命自分のことを心配し、待ってくれている恩人の家族――田辺のご主人、奥さん、そしておばあさんたちのことを思い浮かべました。
さらに、田辺の家の近くに下宿して暮らしているお兄さんの民助のことも考えました。
そんな大人たちからはまだ子供扱いされている間に、彼の心の奥底で芽生えた若い生命の力は、まるで春の勢いよく伸びるタケノコのように、ぐんぐん頭をもたげてきていたのです。
自分を責めて、責めて、責め抜いたあの残酷なまでの苦しさ――。「黙っていよう」と決心したときの心の激しい揺れ動き――。まるで狂ってしまったかのような振る舞い――。学校の友達にも決して話すことのなかった、その日までの心の中での戦いを、どうして自分のお世話をしてくれる大人たちが知る事ができるでしょうか。繁子や玉子のような、キリスト教の学校を卒業したお姉さまたちと若い男女がこっそり交流するような秘密があったことなんて、どうして気づくでしょうかと、彼は思ってみたのです。
まだ世の中の仕組みをよく知らない捨吉にとっては、何もかもが驚きの連続でした。
まるで今この瞬間に初めてこの世に生まれてきたかのような気持ちで、自分が今やっていることを振り返ってみると、いつの間にか彼は大人たちの知らない道を、自分の意思で勝手に歩き始めているということに気づいたのです。
彼はその事実から、言葉では言い表せないほどの恐ろしさを感じました。
七月らしい夏の雨が、寄宿舎の窓を叩きました。
荷物をまとめて寄宿舎を離れようとしていた学生たちはみんな、急に降り出した夕立が通り過ぎるのを待ちました。
当時は、まだ明治という時代が始まって間もない二十年代でした。
東京の市内には、まだ電車という便利な乗り物すらない時代でした。
学校から田辺の家まではおよそ二里(約8キロ)ほどの道のりでしたが、それくらいの距離を歩いて通うことは、若い学生の身にとっては大したことではありませんでした。
よく捨吉は、丘に続く地形に沿って古いお寺や大きなお墓がたくさんある三光町あたりの谷間を遠回りして歩くこともあれば、高輪の通りをまっすぐ聖坂(ひじりざか)へと進み、そこから遠く下町の方にある家を目指して下っていくこともありました。
その日は、伊皿子坂(いさらござか)の下で乗合馬車に乗ろうと思って、お昼ご飯を済ませるとすぐに寄宿舎を出発しました。
夕立が上がったばかりの道は、午後の太陽に照らされて乾き、一層熱を持っていました。
けれども、「もうすぐ待ちにまった夏休みだ」と思うと、なぜだかとても楽しい道を帰っているような温かい気持ちになりました。
遠くのほうで、自分を温かく待っていてくれる存在がある。
そんなワクワクする期待感は、まるでそれが今すぐ手に入る喜びであるかのように感じられたのです。
彼は、自分自身の体が急に成長していること、背がぐんと伸びたこと、手足がしっかりしてきたことを強く実感していました。それだけでなく、恩人の家やそのまわりの人たちの中でも、自分と同じようにみんながどんどん大人になっていっているのだと感じていました。
特に、いままでは「小さな女の子」とばかり思っていた子たちが、急にお姉さんらしく成長しているのには本当に驚かされました。
そうした女の子たちの中には、大伝馬町(おおでんまちょう)にある「大勝(たいしょう)」というお店の娘さんや、竈河岸(かまどがし)にある「樽屋(たるや)」の娘さんなどがいました。
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