初級翻訳・桜の実の熟する時 第6話

島崎 藤村

大勝というのは、捨吉にとって恩人の田辺や兄の民助の「主人(雇い主)」にあたる家であり、樽屋の人たちもしょっちゅう田辺の家を行き来していました。
あの樽屋のおかみさんが、自慢の娘のまだあどけない「鬘下地(かつらしたじ)」という子ども用の髪型を結って踊りのお稽古に通わせていた頃の姿が、いつの間にかすっかり大人びた「島田髷(しまだまげ)」に結い変えられ、お姉さんらしい落ち着いたおでこを見せている姿を、捨吉は頭の中で想像することができました。
また彼は、大伝馬町の奥深い商家で大切に育てられた、大勝の主人の大事なひとり娘である、白くて華奢(きゃしゃ)な女の子の手のひらまでも想像することができたのです。

新橋で乗り換えた乗合馬車は、捨吉を日本橋小伝馬町(こでんまちょう)まで運んでくれました。
太陽の光を浴びてキラキラ光る屋根瓦、黒い壁の土蔵が並ぶ家々、そして新旧さまざまな紺色の暖簾(のれん)が、通りのあちこちに風に揺られています。
そのあたりは、大勝のお店がある場所のすぐ近くでした。
田辺のおばあさんがいつも懐かしそうに捨吉に聞かせてくれた「石町(こくちょう)のご隠居」――人生の栄華の限りを尽くしたという、あの年老いた女性が住んでいた古くて大きな商家があるエリアにもとても近い場所でした。

そもそも、田辺のご主人は、まだ捨吉が小さな少年だった頃にその石町の御隠居のお家の財産整理を頼まれたことがきっかけで、同じ一族である大勝の主人と知り合いになりました。それをきっかけに商売の幅をぐっと広げ、芝居の世界にもお金を動かすようになり、「田辺さん」と言えばその業界の人たち誰もが知るほどの顔役になったのです。
この恩人が、まだ骨の折れるような苦しい下積み時代だった頃から、少年だった捨吉を自分の家に引き取り、親戚でもないのに主人のことを「お父さん(おじさん)」と呼び、奥さんのことを「お姉さん」と呼び(奥さんを「おばさん」と呼ぶには若すぎたし、ご主人との年齢も近かったのです)、まるで本当の家族のように大切に育てられて、捨吉はここまで大きくなってきたのでした。

田辺の家の昔の苦しかった頃に比べると、今はすべてのことがみんなの望み通りにうまくいき始めていました。
その様子が、東京に向かう捨吉の頭にもありありと浮かんできました。
人形町の賑やかな通りを歩いていくと、やがて彼は久松橋(ひさまつばし)のたもとへとたどり着きました。
町中を流れる、少し黒ずんだ川の水が見えます。
空っぽの樽をかついで、陸から荷物を積む船へと行き来する人たちの姿が見えます。
竈河岸に沿って、ななめに建つ樽屋のお店も目に入ってきました。
目にするものすべてが、捨吉にとっては子どもの頃から慣れ親しんだ、大好きなものばかりでした。

当時は明治座も閉まっている時期で、まわりに並ぶ芝居茶屋の軒先までが、夏休みらしくひっそりと静まり返っていました。
そこまでやってくると、田辺の家はもう目の前でした。
表の竹を新しく結い直した垣根や、下町風の情緒がある入り口の門まですっかり新しく綺麗になっているのが、まず捨吉の心をぐっと引きつけたのでした。年はとっても元気いっぱいで気性の激しいお婆さんをはじめとして、主人や奥さんも、風通しの良い涼しい奥座敷にみんなで集まって、いつものように捨吉のことを温かく迎えてくれました。
お婆さんが灰色の髪を後ろにスッキリと切り下げるようにして、なんだか本当の隠居のような上品な雰囲気になったことも、捨吉にとっては新鮮で珍しく感じられました。
それだけではありません。長年の間、病気と戦ってずっと床に伏せったり起きたりしていた奥さんの布団が、すっかりきれいに畳んで片付けられていたのです。
「田辺の姉さん」と言えば、年中部屋の壁に寄せて布団が敷いてあり、そこに身を横たえながらも、ご主人を助けてテキパキと采配を振るっていた姿が、捨吉の頭にはすぐに思い出されました。
その奥さんが布団から離れて元気に起きているというだけでも、家のなかの光景が一気にガラリと変わって見えたのです。
奥さんはまだ自分の体を自分でいたわるかのように、おしゃれな模様のついた芝居茶屋の団扇(うちわ)などを手に持ちながら、
「姉さんも、なんとか命拾いをしたよ」
と自分のことを捨吉に優しく語って見せ、ニコッと微笑みました。
「なにしろねぇ、お前さん、彼女の病気といったらもう八年ごしだからねえ」とお婆さんが言いました。
「小父さん(主人)も本当に苦労が絶えませんでしたよ……。よくぞまあ、ここまですっかり良くなったものだと、あたしなんか感心しちまうよ……木挽町の有名な先生なんかもびっくりしていらっしゃる……。彼女がいつも寝ていた布団をどけてみたら、そこだけ畳の色がすっかり変わっちまうくらいだったんだからねえ……」
まるで自分の本当の孫が夏休みで学校から帰ってきたかのように、お婆さんは捨吉に嬉しそうに話し聞かせながら、長い羅宇(らう)の煙管(きせる)で一服プカッと煙草をふかしました。
このお婆さんが奥さんのことを話す声のトーンには、本当の娘を想うような深い親しみがたっぷりとこもっていました。
主人は、もともとは別の血筋から田辺の家を継いだ人でした。
「まったく苦労の連続でしたよ。
女房が病気でさえなかったら、今頃わたしは銀行の一つくらい、余裕で建てていたでしょうね」
と主人は気さくな調子でカラカラと笑いました。
書生である捨吉を可愛がる心の深いこの主人は、捨吉の方にも目を向けて、学校での様子などを尋ねたりしながら、明るく快活に笑いました。
ずっと昔には、立派な長くて立派な髭を厳しそうに生やしていたおじさんだった人が、今ではその髭をすっかり剃り落とし、涼しそうな浴衣姿で大きな胡坐(あぐら)をかきながら、琥珀色のパイプをくわえて巻き煙草を燻(くすぶ)らせて話している様子は、すっかりすっかり江戸っ子・下町風の人に染まりきっていました。
主人の機嫌が良く、元気づいていることは、その家中に響くような高い笑い声からもよく分かりました。
本当に、あの田辺の姉さんが長い長い病床から見事に身を起こしたというのは、捨吉にとってもまるで信じられないような、ひとつの不思議な出来事のように思えました。
「まあ、捨吉もできるかぎり勉強に励むんだぞ。
姉さんも元気になったし、小父さんもこれからさらにバリバリやれるからな。
近いうちに、小父さんがお前を外国(洋行)に連れて行ってやるからな」
「そうともさ!
外国にでも行って、立派な馬車にでも乗るくらいのエラい人間にならなきゃ、捨吉だって男がすたるってもんだ」
「お前もよく知っている通り、うちではこれまでどれだけの数の書生を預かって世話してきたか分からないが、いつだってこっちの親切が裏目に出ちまうことが多い――だけど、お前ほど長く面倒を見た奴は他にいない――それだけの人徳が、お前にはちゃんと備わっているって証拠だな」
こういう主人とお婆さんの話を、奥さんは傍らで静かに聞いていましたが、やがて捨吉の方をじっと見つめると、言っておかなければならない大事なことを諭すように、こう切り出しました。

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