初級翻訳・楠の話 第5話

楠の話

然し愈々その日が来た時、私は胸の底から何とも云えないものがこみ上げて来た。いつも見える楠の高い茂みが無くなって、村の木立の間にそこだけぽつりと穴があいてるのを、学校の帰りに遠くから認めた時、私は自分の胸にもそれだけ穴があいたような気がした。それで友達を置きざりにして家に駈けて帰った。家に着くと息が喘いでいた。私はそれを押し隠して、二階の室に上り、一人で泣いた。父母の前に本当の心を押し隠し初めたのは、それが最初だった。

楠に斧を当てる音が遠く響いて来た。何とも云えない淋しい音だった。初めは、わくわくしてる私の胸にそれがじかに響いて来たが、泣いてるうちに、それも夢のような一種の安らかさに包まれてしまった。私は自分でも知らないまに泣き止んで、ただぼんやりその響きに耳を傾けていた。

ふと自分を呼ぶような声がしたので、私は急いで階下に下りていった。父は床に寝たまま眼を閉じていていた。私は暫くその枕頭に坐っていたが、父は何とも云わなかった。それで立ち上って、縁側に出て鯉に餌をやった。鯉は水面に入り乱れて餌を食った。それに見入っていると、いつの間にかお父さんも起きあがってきた。
そして、自分でも池にエサを投げ入れてやった。
ふと振り返ると、お父さんの目は涙でいっぱいだった。
そしてぼくに顔を見られたと同時に、涙をはらはらとこぼし落とした。
ぼくはどうしていいか分からなかった。
やたらにエサを池に投げ込んだ。
その時、お母さんがやって来た。
「そんなにたくさんエサをやって、どうするんです。」
とお母さんは言った。
ぼくはそれでなんだか元気が出た。
お母さんの顔はいつも通り青白かったけれど、しっかりと引き締まっていた。
あの日、楠を背にして立っていたお父さんの顔のように、神聖ですらあるとぼくには思えた。
お母さんはお父さんに、また布団で休むようにすすめた。
お父さんは言われるがままに、布団の中に体を横たえた。
楠を切り倒して、その根っこまですっかり掘り起こすのに三日かかった。
その間、ぼくとお母さんとお父さんは、ほとんど言葉を交わさない静かな日を送った。
村の人はもう誰も来なかった。
ただ、Iという人だけが一人でやって来て、すべての面倒を見てくれた。
彼はほとんど楠の方につきっきりで、作業員の人たちに指示を出していた。
ぼくはその間、一度も楠の方へは行かなかった。
けれど、あの日見たのと同じような男たちが額に汗を流しながら楠を切り倒している様子が、はっきりとぼくの頭の中に浮かんでいた。
学校の帰り道、友達がぼくに言った。
「君の家の楠、切られちゃったの?」
「うん!」と、ぼくは強がって答えた。
楠が切り倒され、運び出され、もう見知らぬ人たちも来なくなった頃、ぼくは初めて一人でその場所に行ってみた。
楠があった場所には、大きな穴がぽっかりと開いていた。
楠の隣にあった大きな樫(かし)の木も切られて、枝や葉を切り落とされた幹だけが地面にゴロゴロと転がっていた。
石の小さなお稲荷さんは、脇の方へぽつんと移動させられて置かれていた。
そして向こうには、楠や樫の小枝を束ねた薪(まき)の山が、山のように積み上げられていた。
あたり一帯の様子が、すっかり変わってしまっていた。
そして、ぼくが一番びっくりしたのは、広い青空がすぐ真上に見えたことだった。
地面の景色が変わってしまうことは、あらかじめ何となく想像していたけれど、楠と樫の木がなくなったせいで、あんなにも広い青空がダイレクトに見えるようになるなんて、まったく思いがけないことだった。
ぼくは驚いて、ずーっと空を見上げていた。
なんと青く、澄みきった深さだろう。
ぼくは今までに、あんなにも清らかで純粋な空を見たことがないような気がした。
そして、その空を見つめていると、自分の心までが明るく澄み渡っていくのが分かった。
ぼくはそれから何度もその場所に行って、空を見上げた。
少し体調のいい日には、お父さんもお母さんとぼくに付き添われて、楠のなくなった跡地を見に来た。
そして、お父さんが一番びっくりした様子だったのも、やっぱりあの広い空だった。
(もしお父さんが今も生きていたら、ぼくはあの時どんな気持ちだったのか、ぜひとも尋ねてみたいものだ。)なぜなら、お父さんはその時、寂しそうではあったけれど、本当に清らかな笑みを顔に浮かべていたからだ。
その後、楠の跡にあった穴は埋められ、地面は平らにならされて、もとの場所に小さなお稲荷さんが戻された。
そのうえ、丸太で作られた赤い鳥居が一つ建てられ、小さな楠の木が一本、お稲荷さんの脇に植えられた。
そして、生涯を通して夢見る人だったお父さんは、おそらくそのことには満足して亡くなったことだろう。
けれど今、あの場所の光景を思い浮かべてみると、ぼくの心には三つのものがはっきりと感じられるのだ。
一つは、あの日見たお父さんのりりしい姿。
もう一つは、あの日見た見知らぬ男たちの群れ。
そして最後の一つは、楠が倒れたあとに突然ひらけた、広くて明るい青空だ。
この青空に対する気持ちを、ぼくはとうてい言葉で言い表すことができない。

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