初級翻訳・次郎物語 第5話

下村 湖人

ちょいと門を出るのさえ、この頃ではおずおずしていらっしゃるようで、本当におかわいそうですわ」
「でも、私から直接言い聞かせれば、納得しないわけはないと思うのだがね」
「そうだと結構でございますが……」
「親身の母親が言って聞かせても、ダメだと言うのかい」
少しとげのある言い方です。それが次郎にもよくわかりました。
「そりゃ、仕方がございませんわ」
お浜の突っ張るような声。次郎はそれでいくらか気が強くなりました。
「困った子になってしまったわ」
次郎は、胸の奥に異様な圧迫感を感じました。
お浜は返事をしません。しばらくは、うちわの音だけが、パタパタと聞こえていました。
「とにかく、今夜はどんなことがあっても、連れて帰るつもりでやって来たんだからね……まだ寝ついてはいないんだろう」
急にうちわの音が止み、誰かが立ち上がるような気配がしました。
次郎は唾をこくりと飲み込み、じいさんの方へ寝返りを打ちました。
そして、いびきをかく真似をしました。しかし、次郎のまぶたはぶるぶると震えていて、心臓がどきどきと激しく打っていることが隠せません。
「明日になさったらどうでしょう。こんなに暗くなってからでは、次郎ちゃんが余計にかわいそうですわ」
「何時だって同じことよ。まさか怖いことはあるまい。男の子なんだから」
「でも、こんなことは、やっぱり昼間の方がよろしいはずです。明日になったら、今度こそ本当に納得できるように、私から言い聞かせますから」
「駄目よ、あなたでは。……いつも、あべこべに引き止めるようなことばかり言って聞かせているんでしょう」
「そんなことはありませんわ。とにかく明日までお待ちください。私も本当に腹をくくっているのですから」
次郎は寂しくてたまりませんでした。彼のいびきは、震えがちで不自然なものでした。
「どうかしらね……」お民は、すでに敷居をまたいでいるようです。
次郎のいびきは、ひとりでに止まってしまいました。
「おやおや、奥様でいらっしゃいますか」
校番のじいさんが、ふんどし一つのしわだらけの体を、のろのろと蚊帳の中から起こしました。
「坊ちゃん、お母様だよ。ほら」
じいさんの手が、次郎の肩をゆすぶります。
「ううん……ううん」
次郎はもう一度寝返りを打って、自分の顔をお民から隠しました。彼の耳は、その間にも鋭く周囲の様子を探っています。
しかし、彼のあらゆる努力は結局無駄に終わりました。
次の瞬間には、お民の手が蚊帳の中に伸びてきて、有無を言わせず、次郎の体をずるずると板の間に引きずり出してしまったのです。
「まあ、そんなに乱暴になさらなくても……」
お浜の少し怒りを帯びた声が、戸口から聞こえました。
もうその時には、次郎は裸のまま板の間に座って、目をこすったり、腕をかいたりしていました。
彼は泣きませんでした。諦めとも悲しい決心ともつかないようなものが、この時、彼の心を支配していたのです。
「奥様、どうなさるおつもりで……」
そう言って、じいさんは蚊帳の中からごそごそと出てきました。そして、次郎にたかってくる蚊を、うちわで追ってくれました。
戸外の縁台からは、お浜の後について、お作婆さんや、勘作、お兼、お鶴がぞろぞろと入ってきました。
みんな土間に立ったまま、黙り込んでお民と次郎を見比べています。
その中で、お浜の目だけが、かなり険しく光っていました。ほかの人たちは、ただあっけにとられているようでした。
それからお民は、女の先生のような口調で、何やら長々と次郎に話して聞かせました。
しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も入りませんでした。
彼はその間、お浜の表情だけを注意深くうかがっていました。その表情から、彼女が本当に自分を実家に帰してしまうつもりなのかを読みたかったのです。
しかしお浜の目は険しく光り、じろじろと彼とお民を見比べているだけで、次郎には何の合図もくれませんでした。
「わかったね」
お民は長い説教のあとで、念を押すように言いました。
次郎はそれに対して、無表情にうなずきました。
彼は心の中で、この時、自分の目の前に二人の敵を見ていたのです。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切り者としてのお浜でした。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ」
正面の敵が裏切り者を振り返って言いました。
しかし、裏切り者は相変わらず険しい目つきをしたまま動きません。
次郎は横目で裏切り者の顔をちらとのぞきましたが、その顔からは何の合図もありませんでした。
彼は投げやりな気持ちになって、急に立ち上がると、蚊帳の隅にくたくたに丸めてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯を締めました。
「偉いね」
と、正面の敵が言いました。
次郎は上り框(かまち)の下にうつ伏せになって、自分の草履を探しながら、目の奥が熱くなるのをじっとこらえました。
その間に、お民は提灯に火を入れました。
二人が戸口を出る時、みんなはまるで芝居の幕が下りる時のように静まり返っていました。
ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人の後を1メートルほど離れて校門のところまでついてきて、言いました。
「坊ちゃん、さようなら」
次郎は、しかし、振り返りもしませんでした。
彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民の後ろに従いました。
「怖くはないかい」
一丁(約109メートル)ほど行った時に、お民が言いました。
その時、次郎はお民の左後ろについて歩いていました。
次郎は返事をしませんでした。少し湿った彼の草履が、闇の中で「ぴたぴた」と異様な音を立てました。
「怖ければ、先においで」
次郎は、ちっとも怖くはありませんでした。
しかし、言われるままに小走りしてお民の前に立ちました。
自分の体が、お民の提げている提灯の明かりを道いっぱいに遮って、前が真っ暗になります。
左右の稲田が、ぼうっと明るく、両方の目尻に映ります。
目尻に映るというよりは、直接脳に焼き付くと言ったほうが適切かもしれません。
「先に行くなら、提灯をお持ち」次郎は提灯を受け取りました。
提灯は弓張り提灯でした。
普通に提げると底が地面をこすってしまうため、彼は手首を胸の高さまで持ち上げていなければなりませんでした。
次郎の草履が「ぴたぴた」と音を立てます。
その音が、時折、お民には妙な方向から響いてくるように感じられました。
「次郎、やっぱり後からおいで。足が速すぎていけないよ」
次郎は提灯をお民に返すと、後ろから草履の音を「ぴたぴた」と立てて歩きました。
「向こうから誰か来るようだね」
お民は突然そう言うと、立ち止まりました。
次郎も一緒に立ち止まりましたが、あたりはしんとしていて、誰かが来る気配などありません。
「僕、先に行ってみるよ」
次郎は、どこか皮肉っぽい気持ちになって、母の手から提灯をひったくると、小走りに駆け出しました。
「次郎っ!」
お民の声が、わずかに震えていました。
次郎は二、三メートル先に立って、提灯を上げたり下げたりしました。
その拍子に、ふっと灯が消えて、深い闇がのしかかるように二人を圧迫しました。
「まあ、次郎……」
お民の声は、すっかり怯えきっていました。

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