初級翻訳・河童の話 第3話

折口 信夫

そうした人食い妖怪の災いから身を守る必要は、特に葬式や墓掘りの際、強く意識されていました。お坊さんの知識から「火車」という言葉が広まったと考えられます。

江戸時代の中期まで、遊郭などで使われていた「くわしや(火車)」という言葉には、いろいろな使い方がありました。客を呼び込む茶屋の女房を指すこともあれば、置屋の取りまとめ役の女性を指すこともありました。この「くわしや」は「遣り手(やりて)」とも呼ばれていましたが、後に「くわしや」という呼び名よりも「やりて」という言葉が定着しました。そして、中年女性を連想させる「くわしや」という言葉が「やりて」に入れ替わると、自然と「老婆」を意味する言葉として納得されるようになったのです。

この「くわしや」には「花車」という字を当てることもありますが、実際には「火車」から来ているのでしょう。人を捕らえて引きずり込むような様子からついた名前だと思われます。置屋から独立して、呼び屋(客引き)を構えた女性のことも、やはり「くわしや」と呼んだのでしょう。芝居の世界で「花車形(はなぐるまがた)」と呼ばれたのは、単に女形の年配の役を指す総称でした。

手足が簡単に抜けてしまうという水妖の伝説は、アイヌの人々の間にもあります。「ミンツチ」と呼ばれる存在です。姿形は違いますが、河童と同じようなものです。金田一京助先生は、この「手足が抜けやすい」という特徴を、草人形が変化したものだからだと説明されていました。

藁人形などの手は、芯に竹や木を使っています。草を巻きつけた一本の棒を両手に見立てているので、強く引けば、両方の手が一度に抜けてしまうと言われていたのです。ミンツチという言葉自体が和人の言葉であるように、恐らくこの信仰にも、和人の民俗的な考えが含まれているのだと思います。

草人形が河童になったという話は、壱岐(いき)にもあります。「あまんしゃぐめ」という妖怪が、人間の村の幸福をねたんで、善神と争っていました。土木工事に関する伝説が多く残るこの島で、その善神の名前は忘れられてしまったようです。代わりに、九州本土の左甚五郎(ひだりじんごろう)とも言うべき、竹田の番匠(大工)の名前が誤って使われています。

その番匠とあまんしゃぐめが約束をしました。入り江を横切って対岸へ橋を架けることになり、「もし一番鶏が鳴くまでに完成させたら、島の人々を全員食べてもよい」という条件でした。あまんしゃぐめは三千体の藁人形を作り、そこに呪法をかけて人間のように動かし、工事を始めました。

鶏も鳴かないうちに完成しそうになったのを見た番匠は、隠れて鶏の鳴き声を真似しました。すると、あまんしゃぐめは工事を中止して「掻き曲げて放り投げろ!」と叫びました。その跡地は今でも「げいまぎ崎」と呼ばれています。また、三千の人形に向かって「千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行け」と言って放しました。

これがすべて「があたろ(河童)」になったのです。だからこそ、海や川、山に行きわたり、馬の足跡にたまった水ほどのわずかな水があれば、そこに河童がいると言われるのです。もし人間の力が強ければ、相撲を取りながらその腕を引き抜くこともできます。これも、もともとが藁人形の変化だからと言われているのです。両手が一度に抜けたとは言いませんが、アイヌのミンツチの話に似すぎていて驚くほどです。

夏の祓(はらえ)の行事で、人間の邪悪な汚れを人形に背負わせて川に流すように、その人形が水の世界で命を得たという考え方です。特に田んぼの厄払いには、草人形を作って海や川へ流す風習があります。夏の祓え祭りと、河童や草人形との間に共通点があるのは当然のことです。しかも、河童と関係の深い相撲において、骨を外して負けてしまうという話が多いことから、ますます河童と草人形との結びつきが強まったのだと思われます。

古代の相撲は、腕を挫いたり、肋骨や腰骨を蹴り折ったりするような荒っぽい方法さえあったようです。中世以降、秋の相撲節会(すもうのせちえ)では、左方の力士は葵の花を、右方の力士は瓠(ひさご=ひょうたん)の花を頭に挿して出場しました。瓠は水に縁があるものなので、水の神に属する印らしく、そう考えると葵はそれに対立する神の一類を示すものなのでしょう。必ずしも加茂の神とは限りませんが、何らかの威力ある神なのでしょう。

瓠の花や瓢(ひょうたん)は、他の瓜で代用することができました。しかし、なぜ後世に渡来した胡瓜(きゅうり)が、水の精霊の好むものと考えられるようになったのでしょうか。胡瓜の形は少し瓠を小さくしたような形に似ており、横に切った断面は丸い紋のような形をしています。この形が「祇園守り」の紋所に似ていると言う地方は広いです。

瓜の中に神紋のようなものが見え、ひねると中の種(なかご)が抜けてしまいます。「祇園祭りが過ぎたら胡瓜を食べるな。中には蛇がいる」という言い伝えも、いまだに各地に残っています。祇園(牛頭天王)は異風を好む神です。この神のためには、こうした新しく渡来した瓜を選ぶ風習が起きたとも考えられます。

瓜に顔を書いて流す風習もありました。胡瓜に目や鼻を書くと、イボイボが出た恐ろしい顔になります。この怖い顔をした異国の瓜を、他界から邪悪を連れてきた神の身代わりとして流し送る。こうした考えから、夏の祓えの川祭りに胡瓜が関わるようになったのでしょう。それが次第に、水の神への供え物であると解釈されるようになっていったのではないでしょうか。そうして、河童の好物を胡瓜とする考えが導き出されたのだと思われます。

三 河童の馬曳き

馬も牛も、昔は人と同じ屋根の下で一緒に暮らしていたものです。田舎では、今も牛部屋と厩(うまや)を分けないで一緒にしている家が多くあります。そうした人間の感情を少しは理解してくれる動物たちに対しても、やはり何らかのお祓いが必要だと考えられるようになりました。

二月頃になると、多くは午(うま)の日に行われますが、お祭りの日取りに合わせて他の日に行うこともあります。牛や馬を連れて、山へお参りに行くのです。これは、その年の農作業の始まりから始まる田の行事のために、田んぼで働く動物たちに山で静かに過ごさせる習慣が変化したものです。最初は牛に対して行われていたことが、馬にも広がったようです。後には馬の仕事も増えて、馬を連れて山へお参りに行くことが多くなり、午の日を春祭りの日として選ぶ神社や寺院も増えていきました。

田植えが終わると、牛には休養の時間がやってきます。しかし、馬にはそのような休みがありません。牛の子供が生まれると、その足の跡を濡らした紙に写し取り、入り口の上に貼ります。これは、すでにお祓いが終わった安全な牛のいる家だという目印です。悪い霊が入ってきて、牛を傷つけるのを防ぐためでした。

牛は水ととても縁が深い動物です。「土用丑(どよううし)の日」には、形だけでも水に浸からなければならないとされていました。淵や滝壺の主として、牛が語られている場所もかなりあります。馬にも、同じように川に入る日がありました。そのため、馬もまた水の神様と関わりを持つようになったのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました