「おい! おいたしてると、いい加減にしなさいよッ」
二階の階段の上から、寛子の顔が生首のように覗いた。
階下では、菅子の優しい声で、
「子供なんだから放っておきなさいよ」
と、姉をたしなめる声が聞こえる。
「真っ暗だね? 眠いなら二人とも降りてきなさい。その辺を散らかしていると叔父さんに叱られるよ」
啓吉はまた首をすくめた。
階下では、菅子が牡丹色のジャケットに黒のジャージのスカートをはいて、横座りになったままでこう言った。
「そりゃもちろん、姉さんがだらしないのよ。だけど、女ってものは三十になったって、あんたの言うような分別なんてつかないと思うわ。しかも、五年も一人でいたんですもの、子供なんか構ってられないと思うの……」
「母性愛なんてものはなくなるのかしら?」
「母性愛? 冗談じゃないわ、そんなことはあんたみたいに夫がいる人の言うことよ。――あんた、まだ若作りでむちむちしてるんですもの、苦労してる気持ちはわかるわよ……」
「おやおや、独身のくせして、よく三十女の気持ちがおわかりになりますねえ?」
「わかるもわからないも、本当のことよ。蓮ちゃんだってそうよ。たった十七だけど、あんなことになって、子供のくせにいっぱしの女房気取りで……一番、あんたのことをバカにしているくらいよ」
「へえ、私をバカに? いつ会ったの?」
「ううん、ちょっと尋ねてきたんだけど……すっかり変わってしまってねえ。苦労はしているらしいけど、一人者のあたしの方がよっぽど羨ましかったわよ」
十四
九時を打った。
勘三はまだ帰らなかった。
出前で頼んだ支那そばが、本当に十杯ほども並んだ。
「こんなにご馳走になって済まないわ」
「何言ってるのよ、さあ、伸公も啓ちゃんもたくさんお食べ」
啓吉は茶碗を抱え上げ、湯気で頬を濡らしながら、青いハンドバッグのことを知らないふりをして押し通したことに後ろめたさを感じつつ、そばを食べた。
小さな電気の下で、四つの大きな影が部屋いっぱいに重なり合って、しばらく静かにそばをすする音をさせていたが、寛子が思い出したように言った。
「あんたも、蓮ちゃんを羨ましがらないで、早く結婚したらいいじゃないの?」
「うふッ……何を思い出してるの、さあ、私は私よ」「一番いい人を選びなさいよ」
「年を取りすぎたら、もうおしまいだからね……」
「まあ、ありがとう! 見本が三人いるんだから、せいぜい賢く立ち回るわ……」
「馬鹿ねえ! ところで考えてるんだけど、四人のうちで私が一番、貧乏性かもしれないわね。――お酒ばかり飲んで、のんきそうに見えて浮気性の夫を抱えてさ。おまけに、ぼんやりした子供までぶら下げていて。一生に一度でいいから、あんたみたいに、安い香水でもいいからふりかけてみたいよ、本当に……」
「皮肉ねえ……」
「ん、そ、そうじゃないのよ。つくづく夫というものを持ってみて、女の賢さの加減がよく分かったの」
「だって、お義兄さんは、あれで芯はしっかりしているじゃない。啓坊のお父さんみたいだったら困るでしょ? あれもいけない、これもいけないって言うから、お義兄さんが亡くなっちゃったら、姉さんは一気に若返って、娘時代をやり直すみたいに甘くなっちゃってさ……」
「結局、早咲きも遅咲きもダメで、あんたみたいなのが一番いいってことでしょ」
「あら、いやだわ、冗談でしょ。私だって情熱があれば、蓮ちゃんの轍(てつ)を踏むくらい何でもないけれど……仕事なんか持っていると、そうそう男の人を一目見て、一途に恋をするなんてできないからなの。――でも、そろそろ本当は困ってるのよ。二十四にもなって、別に処女を大事にしているわけじゃないけど、いまさらその辺で適当に捨てるわけにもいかないし……」
「持て余しているの?」
「全く、本当にそうなのよ、ホホ……」
「嫌なお菅ちゃんだ……。ところで、父さんはどうしたのかしら? 遅いわねえ」
伸一郎は、もう寛子の膝を枕にして眠りこけている。隣の家では時計が十時を打った。
「昨日も電話があったけど、ねえ、本当に困るなら、私が明日連れていって、お姉さんの様子、どんな風か見てこようか?」
「拝むわ、そうしてよ。なんだか虫が……」
好かないと言おうとしたが、啓吉が痩せた影をしょんぼりと壁に張りつけさせて、叔母たちの話を聞いているので、さすがに寛子も言葉を濁した。
「啓坊が一番苦労するね」
菅子がそう言って立ち上がった。朽葉色の靴下が細っそりしていて、啓吉の目には美しく映った。
「じゃ、そろそろ帰ろう……啓坊も連れていこうか?」
「頼むわ」
寛子は、シャツを着ていない啓吉が風邪を引くといけないと言って、勘三の縮んでしまった夏のシャツを、啓吉の下着として着せてやった。
「さあ、子供のうちは何でもいいからね。じゃあ、二、三日したらまた来るわ。お義兄さんによろしく。大金が入ったら、それこそ安い香水でも買ってね」
小麦色のスプリングコートを羽織った菅子の後から、啓吉は眠たげな目をして「さようなら」と言って戸外へ出た。路地には風が吹いていた。
十五
風が吹いていて、啓吉は歩くのがおっくうだったが、菅子の後から眠そうにひょこひょこと歩いた。
渋谷から六つ目だかの高田馬場で降りると、菅子のアパートは線路の見える川岸に建っていた。アパートといっても、板造りの二階建てで、もうかなり歴史のある建物だ。
「啓ちゃんは、一番誰が好き?」
「…………」
「よう、誰? 言ってみなよ」
菅子は赤いスリッパに履き替えて、埃のざらついた階段を上りながら、下からついてくる啓吉に尋ねた。
「ええ?」
「母さん……」
「へえ……そうかねえ」
菅子はくりくりした顎の先を部屋の鍵で軽く叩きながら、母と子の愛情は、どんなに粗暴であっても固くつながっているものだと、少しばかり感心しながら言った。
「啓ちゃんのお母さんは、礼子ちゃんばかり可愛がるじゃないの?」
「…………」
啓吉は、答える言葉がないのか黙っていたが、思い出したように小さな口笛を吹き始めた。
四人の姉妹のうち、菅子だけは学問が好きで、田舎の女学校も出ていたし、長い間、貞子の家も手伝っていた。姉の結婚生活には軽い失望も感じるほど、しっかり者だった。
貞子の家庭や、寛子の家庭の様子を見ても、自分が早々と結婚するには及ばないという気持ちを持っていた。よし、結婚したところで満足な答えは出てきそうもない、不思議な算術のような男女の間を、菅子は年齢を重ねているだけに、危険なものとして感じていたのである。
「誰が好きか」と聞かれて、母親が好きだと率直に啓吉は言ったが、さて、自分はどうだろう。故郷を捨てて出てきているし、両親はとっくの昔に亡くなっていた。なんとなく色々な男の顔も浮かんでくるが、心寂しい淋しさばかりで、好きでたまらないという顔が浮かんでこない。
「もう、そろそろ寒くなるわね」
部屋に入ってスイッチをひねると、菅子の牡丹色のジャケットが啓吉の目にきれいに映った。
コメント