初級翻訳・海からきた使い 第2話

小川 未明

「わたしの家は、とても遠いところにあるの……」

娘はそれを聞いてびっくりしました。
「こんなに暗くなってから、どうやってお家へ帰るつもりなのですか……。汚い家ですが、今夜はわたしの家に泊まっていってください」と、娘は真心を込めて言いました。
「わたしのことはどうかお気になさらないで」と言って、少女はそのままあちらへと去っていきました。

その晩、雨が降りました。
娘は薄暗い家の中で赤ん坊をあやしながら、先ほど通りかかったやさしい少女は今ごろどうしているだろうかと、その身の上を案じていました。しかし、この夜から不思議なことに、お母さんの病気はだんだんと快方に向かっていったのです。

いつのまにか季節は巡り、冬がやってきました。
木枯らしが吹くある夜のことです。地面には、二、三日前に降った大雪がまだ溶けずに残っていました。空には、きらきらと星が、雲の隙間から鋭く輝いています。

そこへ、一人の哀れな年老いた按摩(あんま)がやってきました。
毎晩のように杖をつき、笛を鳴らしながら町の中を歩いていたのです。按摩は坂道にさしかかり、道が凍っていたために足をすべらせてしまいました。その拍子に懐から財布を落としてしまい、口が開いた財布から銀貨や銅貨があたりにコロコロと転がり落ちてしまったのです。

「ああ、しまった!」と、按摩はあわてて両手で地面を探し始めました。
指先は寒さと冷たさでかじかんでしまい、それが石ころなのか、土なのか、それとも銅貨なのかさえ判断がつきません。通りかかる人たちは、わき目も振らず、寒さのあまり家路を急ぐばかりでした。また、この様子を見た人の中には、「拾ってあげても、相手が盲目だから疑われるかもしれないし、関わるのはやめよう」と考えたり、あるいは「後からこっそり自分で銭を拾ってやろう」というような、よこしまな考えを抱く小僧もいたのです。

ちょうどそのとき、やさしい少女が通りかかりました。
「なんて人間は浅ましい心を持っているのでしょう。天国には、こんな考えを持つ者や薄情な者は一人もいないのに!」と、少女は思いました。
「おじいさん、わたしが拾ってあげますね」
少女はそう言って、銀貨や銅貨をすべて拾い集め、按摩の財布に入れてあげました。

年老いた按摩は、たいへん喜びました。
「今夜は道が凍っていて危ないから出かけまいかとも思ったのですが、出てきてこんな目にあってしまいました。本当にありがとうございます」と、按摩は何度も何度も礼を述べました。

やさしい少女は、按摩の手を引いて家まで送り届けてあげました。
家ではおばあさんが、「こんなに寒くて道も滑るのに、怪我でもしていないだろうか」と心配していました。そこへ、按摩のおじいさんが少女に手を引かれて帰ってきたのです。おばあさんは、おじいさんから今夜少女に助けられた話を聞くと、たいそう感心して、心の底から厚くお礼を申し上げました。二人は、少女を家に招き入れると、火を焚いて暖かくして、いたわりました。
「お嬢さんは、この町の人ではないようですが、お家はどこでいらっしゃいますか?」
おばあさんは尋ねました。
少女は、急に寂しそうな顔つきをしました。
「この世界には、わたしの家というものはないのです。わたしは全くのひとりぼっちで、今日はこの町、明日はあちらの村というふうに歩いているのです……」と、少女は答えました。
すると、おばあさんもおじいさんも、驚いたような顔をしました。
「まあ、それなら、お父さんやお母さんもいらっしゃらないのですか?」と、二人は尋ねました。
「わたしのお父さんもお母さんも、ここから遠い、遠い、歩いては行かれないところにおります」と、少女は答えました。
おばあさんは、納得したようにうなずきました。
「二人とも、亡くなられたのですね……あなたは、孤児なのですね」と言って、勝手にそう決めつけてしまいました。
目が見えないおじいさんは、おばあさんの袖を引きました。
「やさしい子でもあるし、両親がいないというのなら、幸い、うちの子にしてはどうだろうか?」と、顔をおばあさんの方に向けて、小さな声で言いました。
おばあさんは、じろじろと少女の様子を見て、孤児にしてはあまりにきれいで、どことなく上品なので、何となく納得がいかないといった様子で首をかしげていました。
「そう簡単に、おまえさんのように決めてしまっていいものだろうか……」と、少し怒ったような声で言いました。
「おばあさん、よく考えてみるがいい。こんな子供がいてくれたら、どれほど家の役に立つか知れないぜ」と、按摩は言いました。
おばあさんは、なるほどと納得しました。
そこで急に声をやさしくして、少女に向かって言いました。
「どこのお嬢さんかは存じませんが、いまお話しされたような身の上でしたら、うちの子になってくださいませんか。実は、私たちは二人きりで寂しくて仕方がないのですから」
少女は、遠い空のかなたのふるさとを思い出しました。いつもふるさとのことを思うと、悲しくなりました。
「わたしは、ここの家の子になることはできませんけれど、少しの間でよければ、お手伝いをさせていただきます」と、少女は答えました。
「それなら、少しの間でもいいから手伝ってください」と、二人は頼みました。
やさしい少女は、この日からおばあさんやおじいさんのお手伝いをして、親切に二人のためを思って尽くしました。
老人夫婦は決して心の悪い人ではありませんでしたから、少女はつらいことがあっても我慢しました。
そして夜には、按摩のおじいさんの手を引いて町へも出かけました。
「おじいさん、寒い晩ですね」と、少女は歩きながら、おじいさんに話しかけました。
「ああ、早く春になって、暖かくなってくれるといいんだが」とおじいさんは言いました。
木枯らしが吹いていました。
そして星の光が、今にも飛び散りそうなほど、空でぴかぴかと輝いていました。
少女はじっと星の光を眺めて、ふるさとのことを思っていたのです。

春になりました。
海の上は穏やかで、山には木々の花が咲き、野原には緑色の草が芽吹きました。
ある日のこと、町の人々は、海の上に不思議な景色が見えるとうわさしました。それは蜃気楼だったのです。
「おばあさん、海の上に不思議な景色が見えるといいますから、行ってみましょう……」と、少女はおばあさんに言いました。
「ああ、いいお天気だから、おまえだけ行ってごらん。私は年寄りだから、歩くのが大変なんだよ」とおばあさんは答えました。
少女はひとりで海へ行ってみたのです。
海原はどこまでも青々と霞んでいました。
太陽の光はうららかに、波の上を照らしていました。
町の人々はたくさん海辺に出て、沖の方を眺めていました。
そのうちに、ぼんやりと夢のように、影のように、どこの景色とも知れない山や野原、紫色の屋根などが浮かんで見えたのです。
「ああ、わたしのふるさとの景色だこと」と言って、少女は飛び上がりました。
天国から下界へ来て、はや三年の月日が流れていました。
その間に、いろいろな人間の生活に触れてみました。
しかし、いまやふるさとに帰る時がきたのです。

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