そっと木の幹から覗いている賢吉君の目の前に、風を切ってひとりの若者の姿が現れました。
なんだか派手な縞模様の背広を着た、不良のような奴です。
若者はたちまち、逃げる男に追いつきました。
「待てッ、さあ、もう逃がさないぞ。
貴様が鉄の箱を持って逃げたことは、ちゃんと知っているんだ。
あれをこっちへよこせ!」
若者のふてぶてしい怒鳴り声に、五十歳の男は弱々しく答えました。
「鉄の箱なんて俺は知らない。
さあ、見るがいい。
俺はどこにも、そんなもの持ってやしない」
若者は、五十歳の男の体じゅうを探っている様子でした。
しかし、鉄の箱はとっくに賢吉君の手に渡っているのですから、どこからも出てくるはずはありません。
「ちくしょう。
どこかへ隠したな。
さあ、白状しろ。
どこへ隠した。
言わないと、痛い目を見せるぞ!」
若者は五十歳の男の手を掴んで、背中の方へねじり上げました。
しかし、男は一言も答えません。それどころか、いまは死にものぐるいになって、パッとその手をふりきると、いきなり若者に飛びかかっていきました。
おそろしい格闘がはじまったのです。
ふたりは暗闇のなかで、くんずほぐれつ取っ組み合い、そのままたおれて、上になったり下になったりしながら地面をゴロゴロと転げ回っていましたが、五十歳の男が若い不良にかなうはずはありません。
いつのまにか若者に組み伏せられ、気味の悪いうなり声をあげていました。
若者はその男の上に馬乗りになると、両手で首を締めつけているのです。
下の男は死んでしまうかもしれません。
もうぐったりとして、声をあげることすらできない様子です。
賢吉君は木の陰から飛び出して助けてやろうかと思いましたが、そんなことをしても不良に勝てるはずはないので、鉄の小箱を奪われてしまうかもしれません。
奪われてしまっては、あの男に申し訳が立ちません。命を捨ててでも隠したいと思っている小箱ですから、どんなことがあっても不良に渡すわけにはいかないのです。
そんなことをあれこれと考えて迷っているうちに、若者が手を離して立ち上がったようです。
「命は助けてやる。鉄の箱を手に入れるまでは、貴様を生かしておかないと親分にしかられるからな。これから帰って親分と相談し、また出直してくる。鉄の箱はどうしても手に入れるつもりだから、そのつもりでいろ」
若者はそう言い捨てて、どこかへ去っていきました。
立ち去ったと見せかけてどこかに隠れているのではないかと、賢吉君はしばらく様子をうかがっていましたが、いつまでたっても何も起こらず、本当に帰ってしまったらしいので、おずおずと木陰から出て、倒れている男に近づきました。
男はまるで死んだようになっていましたが、賢吉君が顔をのぞきこんで抱き起こそうとすると、ようやく目を開き、苦しそうな声を出しました。
「あ、君か……。俺はやられた。もうだめだ。箱を頼んだよ。俺が死んだら、川へ捨ててくれ。それから、どうせ警察沙汰になるだろうが、箱のことだけは黙っていてくれ。警察にも知られたくないんだ。君の家の人にも言っちゃいけないよ。俺は何も悪いことはしていない。君に迷惑がかかるようなことは決してないのだから……いいか、頼んだよ」
それだけ言うのが精一杯でした。
男はそのまま再び目を閉じ、ぐったりとなってしまいました。
賢吉君は自分ひとりではどうにもならないと思い、いきなり駆け出して神社の森を抜け、近くの自宅へ帰ってお父さんに今までの出来事を伝えました。
鉄の箱は自分の勉強部屋の本棚の引き出しの中へ隠し、お父さんにもそのことは言わなかったのです。
お父さんはすぐに警察へ電話をかけ、自分も賢吉君の案内で森の中へ行ってみることにしました。
窓の顔
賢吉君に鉄の小箱を預けた五十歳の男は、それから四、五日後に警察の病院で息を引き取りました。
調べてみると、この男は船員上がりの宿なしで、家族も親戚もいないひとりぼっちの男だとわかりました。警察の手で病院に入れて手当てをしたのですが、もともと体が弱かったので、とうとう死んでしまったのでした。
さて、その男が死んだとなると、賢吉君は約束にしたがって鉄の小箱を川へ捨てなければなりません。しかし、なにか大きな秘密が隠されているというその箱を捨ててしまう気には、どうしてもなれませんでした。
そっと隠しておいて、自分でその秘密を探ってみたいのです。
それで約束には背くけれども、しばらく捨てないで隠しておくことにしました。
その箱は長さ十五センチ、幅九センチ、厚さ六センチほどの、唐草模様の彫刻がある黒い鉄の箱で、どこにも継ぎ目がなく、どうして開くのか少しもわかりません。
中には何が入っているのか、振ってみても何の音もしないのです。
賢吉君は、その中にとほうもない宝物でも入っているようで、急いで箱を壊してしまうのが惜しいような気がしました。
あとでゆっくり調べることにして、どこか誰にも知られないような場所へ隠さなければなりません。
そこでいろいろ考えた末、庭の築山の適当な石の下へ隠すことに決め、森の中の格闘があった夜、みんなが寝静まったころにそっと部屋の窓から抜け出し、おもちゃのシャベルで石の下を掘って、そこへ鉄の箱を埋めておいたのです。
男が病院で死んだという知らせを受けた晩にも、その石をどけて覗いてみましたが、鉄の箱はちゃんとそこにありました。
しかし、賢吉君にはひとつ心配なことがあったのです。森の中での格闘のあと、家に帰ってから気づいたのですが、上着のポケットに入れていたはずのナイフがなくなっていました。
鉛筆を削るための小さなナイフなのですが、あのとき木のかげにかくれて格闘の様子を見ているあいだ、知らず知らずのうちにそのナイフを手に握りしめていたのです。
べつにそれで、あの不良を傷つけようというつもりは全くありませんでした。ただ、無意識のうちに手がそこへ伸びて、ギュッと握りしめていたのでしょう。
そのときは、元のポケットにしまったつもりでしたが、あまりにあわてていたので、うっかり落としてしまったのかもしれません。
そのナイフの柄の外側にはシカの角が貼り付けてあるのですが、困ったことに、そのシカの角の表面には、自分の名前がローマ字で「K・MIYATA」と掘りつけてあったのです。
もし、あのナイフを悪いやつに拾われたら、賢吉君が鉄の箱を隠していることを、さとられてしまうかもしれません。
それで、次の日の昼間に森の中へ行って、その辺りをくまなく探したのですが、ナイフはどこにも落ちていませんでした。
あの不良が、あとからやって来て拾っていったのではないでしょうか。
賢吉君には、それがただひとつの心配事でした。
さて、男が病院で亡くなってから十五日ほどたった、ある晩のことです。
賢吉君は勉強部屋の机に向かって、学校の宿題をしていました。
もう夜の九時ごろでした。
その日も夕方、だれも見ていないのを確かめてから築山の石の下をのぞき、鉄の箱がちゃんともとの場所にあることを確認しておきました。
そして安心して、勉強していたのです。
この様子だと、ナイフを拾ったのは悪いやつではなさそうです。
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