初級翻訳・海底の魔術師 第9話

江戸川 乱歩

ハヤク、ヨンデクレ」

仕方がないので明智さんを呼んで、受話器を渡しました。
「私は明智だが、君は誰かね?」
「シッテルダロ、オマエノテキダ。ヨクモテツノハコノナカノモノヲ、カクシタナ。オボエテイロ、キット、トリカエシテヤルゾ。アケチ、オボエテイロ」
そう言うと、ガチャンと電話が切れました。

明智さんは賢吉君のお父さんと顔を見合わせました。
「鉄の人魚です。やはりあいつが、あの大金塊を狙っているのです。油断はできません。一刻も早く引き上げ作業をしなければ」

それから二週間ほどは、何事もなく過ぎ去りました。
そしてある日のこと、日東サルベージ会社の「ハヤブサ丸」が、大阪港から潮ノ岬に向けて出発しました。
ハヤブサ丸は、六百トンの引き上げ作業船です。この船には、サルベージ会社の技師や潜水夫、船員たちに加え、賢吉君と、お父さんの宮田さん、そして小林少年が乗り込んでいたのです。東京から大阪まで電車で移動し、そこからこの船に乗り込みました。
小林君は明智探偵の代理として同行したのです。
もしも難しい事態が起きたら、無線で明智先生に知らせるという約束でした。
季節は春、空は青々と晴れ渡り、畳のように静かな海を、「ハヤブサ丸」は滑るように進んでいきます。
楽しい航海でした。
小林少年と賢吉少年は上甲板に出て、船尾に泡立つ白い波を見ながら肩を組み、高らかに歌を歌いました。
その夜は、美しい月夜でした。
夜が更けるにつれて月はいっそう冴えわたり、波にその影を映して、海は一面に銀箔を撒き散らしたようです。
交代で見張りについている船員のほかは、みんな船室に入って眠りについていました。
トントントントンという機関の響き、サーッ、サーッと船が波を切る音。煌々と照る月の下には、そのほかに何の物音もしませんでした。
ひとりの船員が、甲板をコツコツと歩いていました。
一時間ごとの見回りです。
中央船室の横の細い通路を通って、船首のほうへ出ました。
吊り上げた救命ボートの下をくぐって、ひょいと向こうを見ると、船首の突端に黒いものがうずくまっていました。
「おやっ、あんなところに誰かが寝ているのだろうか」
変だと思ってそのほうへ近づいていきましたが、どうも人間ではなさそうです。
体中に大きなウロコが生えています。
それが月の光を受けて、キラキラと光っているのです。
長い尻尾があります。
頭から背中にかけて、ギザギザのトサカのようなものが続いています。
なんだか大きなワニのようでした。
しかし、このあたりにワニが住んでいるはずはありません。
船員は背筋がゾーッと寒くなってきました。
どんな動物の本にも書いていないような、妙に気味の悪いものです。
でも、怖いもの見たさで足音を忍ばせながら、なおも近づいていくと、その黒い奴が首を上げて、ぐーっとこちらを向きました。
それを一目見ると、船員は体が痺れたようになって、逃げることも叫ぶこともできなくなってしまいました。
黒い鉄のような大きな顔に、窪んだ目がリンのように輝いていました。
耳まで裂けた三日月形の口から、白い牙がニューッと突き出していました。
「ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ……」
怪物が口を大きく開いて笑っているのです。
その笑い声は、まるで鉄を擦り合わせるような、気味の悪い音でした。
「ワーッ!」
とうとう声が出ました。
船員は死に物狂いの声を振り絞って、助けを求めました。
「誰か来てくれ……!」
その声に、どこからか人の走る音がして、ひとり、ふたり、三人と船員が駆けつけてきました。
船首の怪物はひときわ大きな声で笑いながら、さっと身を翻すと、ウロコをキラキラ光らせながら船端の手すりを越えて、ドボーンと海の中へ飛び込んでしまいました。
急いで船端に駆け寄って覗いてみると、鉄のワニのような奴が船と並んで泳いでいましたが、あっと思う間に水中深く沈んで、海面から姿を消していきました。
鉄の人魚です。
鉄の小箱の海図を盗むことができなかったので、密かに賢吉君らのあとを追い、この船までつけてきたのでしょう。
海中に飛び込んだといっても、あいつは元々海の怪物です。
船と同じ速さで泳いでいるのかもしれません。
そしてどこまでも執念深く、賢吉君たちのあとを追ってくるのかもしれません。

船室の骸骨

小林少年はこの出来事を無線で東京の警視庁に知らせ、そこから明智探偵事務所へ伝えてもらいました。
それからは別段の出来事もなく、ハヤブサ丸は潮ノ岬の沖に着きました。
宮田さんの手に入れた海図には、大洋丸の沈んだ位置の緯度と経度がきちんと記されていますから、その位置の海底を水中探測機で探ればよいのです。
水中探測機というのは、船から超短波を発して、それが海底にぶつかって戻ってくる時間がグラフになって紙の上に現れるようになっている機械です。
そのグラフの曲線で海の深さがわかるのですが、もし沈没船があれば、そこだけ急に膨らんだ線になって現れるので、それと察しがつくわけです。
ハヤブサ丸は海図に記してある海面を行ったり来たりして、繰り返し水中探測機のグラフを調べました。
そして、その曲線の膨らみが海底の岩などではなく、沈没船に違いないことを確かめたのです。
海面から沈没船の上部までは、わずかに三十メートルほどでした。これなら、金塊だけでなく、大洋丸そのものも引き揚げることができるかもしれません。大洋丸の船長が、正しい沈没場所を隠していたばかりに、貴重な金塊や鉄材が二十年も海底に眠っていたのです。

沈没船の位置がわかると、いよいよ潜水夫を潜らせてみることになりました。金塊が大洋丸のどこに積まれていたかは、船長の遺言書にも書いてありませんので、それを探すだけでも大変な仕事です。ですから、すぐに金塊を引き揚げるのではなく、まずはその沈没船が本当に大洋丸かどうかを確かめるための潜水です。

その日は、空が青々と晴れ渡った絶好の天気で、風もなく波もなく、潜水にはもってこいの日和でした。サルベージ会社の人たちは、二人の屈強な潜水夫を選び出し、ゴム製の潜水服を着せ、真鍮(しんちゅう)の重いヘルメットをかぶせてやり、ヘルメットの中に空気を送るエンジンの準備を整えました。

二人の潜水夫は、ハヤブサ丸の船体外側に取り付けられたまっすぐな鉄のハシゴを降りていきました。タコのお化けのような丸い頭をゆらゆらと揺らしながら、命綱とゴムホースのような送気管、そしてそれに巻きついている電話線を引きずるようにして、冷たい水の中へと入っていったのです。

船の上では、船長や汽船会社の人たち、そしてこの引き揚げ作業の責任者である宮田さんたちに混じって、賢吉少年と小林少年が、海中に異様な姿を消していく潜水夫たちの様子をじっと見守っていました。

二人の潜水夫は、右手には何かをこじ開けるための鉄棒のようなものを持ち、左手には暗い沈没船の中を照らすための水中電灯を下げていました。潜水夫たちは、足の裏につけた大きな鉛(なまり)の重りや、胸に下げた重りの力で、ぐんぐん水の中へと沈んでいきます。

深く沈むにつれて、下の方から巨大な船体が見えてきました。

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