「どうにも想像できない不思議さだ」
クーパー事務長は、たばこの煙をうまそうに吐き出しながらつぶやきました。
しかし結局、彼は、さっき火をつけようとしたときにギャッと言って逃げ出した怪物が何者であったかを解き明かせば、巨船メリー号が今どこにいるかが相当はっきり分かるだろうと思い至りました。
彼はそう決心すると、船内の要所要所に電話をかけて、怪しげな生物が現れなかったかを問い合わせました。
「――冗談じゃない」と船橋にいた老船長が怒りだしました。
「この年になるが、海の中でそんな生物を一度も見かけたことはない。クーパー君、きみは気が確かかね?」
クーパーは無言で電話を切りました。
実際にその怪物に出会った者でなければ、そんな不思議な地点へメリー号がはまり込んでいるという事実を信じられないのでしょう。
「どうだね、シリン君」
と、こんどは機関部へ電話をかけました。
「おお、おおっ、そ、それだっ!」
機関長シリンは、つかえながら電話口にかじりついてきました。
「それがどうしたんだ」
「いや、クーパー君。そういうへんてこなやつが、さっきからウロウロしているんだ。しきりにギャアギャアと悲鳴のようなものをあげているんだが、それが決まってエンジンの焼けている付近で起こるんだ。ぼくは思うに、その不思議な生物は、そこにある熱い鉄管に接触して、いちいち火傷をしているのだと思うよ。全く知恵の足りないやつだ。きっと海に住んでいる獣じゃないかと思うよ」
クーパーはそれを聞くと、呼吸をはずませながら、
「そうか……」「きみも獣説か! するとわれわれは今、その怪獣の住んでいる洞穴の中にいるんだろうか」
「そうかもしれない。それでぼくは……」
と言いかけている途端、機関長シリンは急にアッと声を上げました。そして胸の底から絞り出すような声で叫んだのです。
「――人殺しッ! おい、クーパー助けてくれ――いま俺の首を絞めているやつが……」
そこまでは聞こえましたが、それから後、再びシリンの太い声が電話機の中から響いてくることはありませんでした。
さあ、やるぞ!
クーパー事務長は、呆然として受話器を握りしめていました。もうシリンの声は聞こえませんが、何かピシュル、ピシュルと革紐でも振り回すような音が、機関部と思われる部屋の中でしているのが聞こえてきました。そして、シリンの断末魔の悲鳴と思われる「ウーム」という唸り声が、クーパーの耳にハッキリと届いたのです。
いよいよ事態は深刻なものとなりました。このままでは、この豪華客船の中は恐ろしい修羅場と化してしまうでしょう。
「おい、マルラ。おまえも武装するんだ」
クーパーは秘書を呼び、机の長い引き出しの奥から一挺の軽機関銃を取り出すと、手探りで彼女に渡しました。そして、彼自身も一挺のピストルをポケットに忍ばせました。
「だが、ぼくの命令がないうちは、どんなことがあっても撃ってはならぬぞ」
「ええ、大丈夫です。でも、これさえあれば、どんなやつが来ても……」
マルラは機関銃を受け取ると、急に気が強くなったようです。戸締まりも完璧。武装も整いました。これで一安心です。事務長クーパーは、これからの作戦をどうしたものかと考えを巡らせようとしました。しかしこの状況では、目が全く見えない以上、どうすることもできません。何よりも必要なのは視力でした。
そこで彼は考えました。
第一に、船医を呼んで視力を回復させるように努力すること。
第二に、電気主任を呼んで、この怪しい黄霧を散らすこと。
第三に、一等運転士のパイクソンが少しだけ目が見えるという幸運を頼りに、彼を呼び寄せること。
この三つのうちどれか一つでも成功すれば、不幸な船客たちのために、クイーン・メリー号が今どのような運命にあるのかを判断できるだろうと考えたのです。
クーパー事務長は決心がつくと、電話機を手に取り、船医長のモルフィス博士を呼びました。博士はすこぶる元気のない声で答えました。
「これじゃ、どうしようもありませんよ。目が見えなくては、薬瓶のラベルを読むことさえできないんです」
仕方がないので電気主任を呼ぶと、彼は「モーター一つ、危なくて回せやしません」と断ってきました。
最後に一等運転士へ電話をかけてみると、彼は言いました。
「よし、ではぼくが引き受けよう。ぼくが博士と電気主任の二人を連れて、きみの部屋に行こうじゃないか」
「うん、それはありがたい。至急、頼む」
「じゃあ、船長とぼくとは、これから司令塔を出る。そして三十分以内に、二人を連れてきみの部屋にたどり着くからね」
「よろしく頼む。だが、きみの二つの目が、このメリー号に乗り組んでいる全員が持っている『たった二つの目』だということを忘れないで、大事にしてくれたまえ」
クーパーはパイクソンの両目について、心配でたまらないという風に念を押しました。さあ、これで準備は整いました。この危難を克服するために、少しずつこちらの戦力が増えていくのは頼もしいことです。しかし、果たしてパイクソンは、三十分後に二人の重要人物を連れて、クーパー事務長の部屋にたどり着くことができるのでしょうか。
魚とり大会
メリー号の捜索に従事していたフランス汽船ルゾン号の甲板に、英国の名探偵スミス警部がふらりと現れました。その後に続いて飛び出してきたのは、もうすっかり元気を取り戻した三千夫少年でした。
「スミスのおじさん、まだ始めないの? ぼく、待ち遠しいんだがなァ」
「うん、いよいよ始めようと思っているところだ。ああ、ちょうどいい。向こうから船長が来られたから、話してみよう」
いったい何を始めようというのでしょうか。エバン船長は相変わらず鉄壁のような広い胸を張り、悠然と近づいてきました。
「やあ、さすがのわしも弱っておりますわい。なにしろ戦うべき相手が見つからんでねえ。いったい敵はどの方面にいるのでしょうかなァ」
さすがの古強者も、相手の姿が見えない戦いに、その鉄腕のやり場に困っているといった様子です。
「そこで、船長さん」とスミス警部は言いました。「わたしに名案が一つあるんですが、やってみてくれませんか」
「ほう、それはどんなことです?」
「それはですね」スミス警部は少し笑って言いました。「今日一日、乗組員総出で、この辺で魚釣り大会をしたいのです。わたしが懸賞金を出しますよ」
「懸賞? それは面白い。わしも寄付してもいい」「一等は、どうやって決めるんですか?」
「それはぼくが審査しましょう」
「なるほど、スミスさんが審判長というわけですね。
みんな気分が沈んでいたところですから、これはいい思いつきだ」
そこで船内に、にわかに魚釣り大会の懸賞が発表されました。
驚いたのは乗組員たちです。
釣っても網で捕っても、どちらでも構いません。
とにかく魚を捕まえれば、スミス警部が審査をして、一等には一万フランの懸賞金を出すというのですから、みんな大喜びで、船内はたいへんな騒ぎになりました。
そのうちにルゾン号はエンジンをほとんど止めました。
腕に覚えのある者たちは、さっそく船の後部へ行って糸を垂らします。
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