初級翻訳・海底都市 第29話

海底都市

君の辛抱強さ、君の深い愛、君の正しい信念――君が使者として地底へ来てくれなかったら、こうして平和にはいかなかっただろうと思います。
ありがとう、ありがとう」
オンドリは僕にすがりついて、感謝の言葉を述べてくれました。
さあ、これで平和のうちに、惨禍に苦しむトロ族たちを救い出しに行けます。
カビ博士は救済団の団長となり、すぐに出発することになりました。
もちろんオンドリたちと一緒に、先頭に立って地底へ乗り込むのです。
海底都市の人々は、この救済団の出発を見送るために広場へと集まってきました。
すごい人出でした。
これほど人が集まったことは、海底都市が始まって以来、一度もありませんでした。
人々の声はカビ博士の名を呼び、その功績をほめたたえています。
博士は上気して、顔を真っ赤にしています。

意外なる待人

「おめでとう、カビ君。
この手柄によって、君は次の市長に選ばれるだろう」「しっかりやって来たまえ」
 僕は博士の肩をうしろからポンと叩いて、そう言った。
すると博士は、くるりとうしろを振り向いて、片目をギュッとつむり、首を横に振った。
(そうじゃない。みんな君の手柄なんだよ)
 という気持ちを込めているのだ。
「これから君もいっしょに来て、わしをいつも通り助けてくれるだろうな」
「もちろんだよ。僕は今回の機会に、トロ族のことを徹底的に研究して、彼らのために安心して暮らせる立派な国を建設してあげたいと思っているんだ」
「おお、万歳! それだ。君は今度こそ表舞台に立って仕事をするべきだ。わしは君のことについて、いずれ市民のみんなに本当のことをすべて話すつもりだよ」
「僕が不正入国の『影の人間』だということも、かい?」
「シーッ! ……大きな声を出してはいけないよ。わしも同罪になってしまうからな。そのことは隠しておいたほうがいい。たとえそれを隠したとしても、君の功績は誰にも隠しきれないのだから」
「好きなようにしてくれ」
 僕もこのときばかりは、これからの大きな計画を思って、ワクワクする気持ちを抑えることができなかった。事実上、僕が海底にトロ族の新興都市を作る指導者になるんだ。そしてヤマ族の海底都市ともしっかり連絡を取り合って、ここに『海底連合大居住区』を建設するんだ。それから、双方の文化を交流させて……。
「そうそう、出発の前に、どうしても君に会わせなければならない人がいたのを忘れていたよ」
 とカビ博士が急に言い出した。
「僕に会わせるだって? それは一体誰だい?」
「ふふふふ」
 カビ博士は一人で笑ってから、こう言った。
「おどろいてはいけないよ。君の奥さんだよ。君の夫人だよ」
「ええっ、僕の妻だって?」
 僕は驚いた。本当にびっくりした。冗談じゃない。本当の僕はまだ学生なんだ。妻なんていてたまるものか。そのことをカビ博士に伝えると、彼はせせら笑った。
「なんという頭の固いことだ。君は本当は学生かもしれないが、この海底都市においては、もう大人として年を重ねているんだから、君に妻がいたって少しも不思議じゃないだろう」
「だって僕は、『影の人物』なんだぜ」
「しかし君は、現在の学生時代よりも何十年先まで生きる運命を持っているのだから、君には『未来』というものがあるわけだ。今はまだ妻がいなくとも、やがて結婚する年齢になるだろう? だから二十年先の世の中であるこの海底都市において、君の妻が町をうろうろしていたって、ちっとも不思議なことじゃない。そうだろう?」
「ふーん……」
 僕はうなった。言われてみれば、その通りかもしれない。しかし正直なところ、自分の妻に会うなんて、はずかしくてたまらないのだ。……でも、どんな顔をしているんだろうか。ちょっと会ってみたい気も起こらないではない。
「だいぶ前から、君の奥さんは別室で待っているんだ。タクマ少年がずっとそのそばについて、わしが連絡するのを待っているのさ。さあ、これから行って、すぐに会いたまえ。なにをもじもじしているんだ」
 カビ博士は遠慮なく僕を急かす。
「あ、ちょっと待った」
 と僕は手を挙げて言った。
「どうも訳が分からないことがあるんだ……」
「訳が分からないって、何が……」
「これは会わないほうがいいと思うね。なぜかというと、いいかい? その奥さんだがね、その奥さんには夫がいるんだろう?」
「当たり前じゃないか。君という夫がいるんだ」
「ちょっと待った。そこなんだよ――」
 と僕は一息ついて続けた。
「その奥さんには、僕という『本当の夫』がいる。そこへ持ってきて、これから『本当の僕ではない僕の影』が出ていって会うなんて、これは変なことじゃないか」
「なんだって?」
「そうだろう? 影の僕が出ていって妻に会う。二人で話をしているそのそばへ、二十年後の世界の『本当の僕』がのこのこ現れて妻のそばへ行く。すると僕の姿をした同じ人間が二人もできて、妻の前に立つことになるんだ。妻はそれを見てどう思うだろう? 驚いて目を回してしまうぜ。だから会わないほうがいいんだ」
「わははは!」
 とカビ博士は笑い出した。
「気がつかないで通り過ぎるかと思ったが、とうとうそこに気がついてしまったか」
「なんだ、君ははじめからその矛盾を知っていたのか。意地悪な男だなあ」
「いや、これには実は深い事情があるんだ。それを今ここで説明している暇はないが、とにかくわしは君に保証する。いいかね、その深い事情が実にうまく今一つの機会を作っていて、君と妻が会うには今が絶好のチャンスなんだ。君の奥さんは君を決して怪しみはしないだろうし、また本物の君が横から出てきてびっくりさせるようなことは決してない。だからぜひ会いたまえ」
 カビ博士はしきりに僕をすすめる。

大団円

 カビ博士は、僕を僕の二十年後の妻と会わせたがっている。熱心にいろいろと僕を説きつける。本物の僕と、この影の僕とが鉢合わせをするようなことはないと、博士は保証するのだった。しかも博士は、ついに妙なことを言いだした。
これには「深い事情がある」というのだ。
僕は気になってしょうがない。そこで博士に向かい、その「深い事情」とは何かと尋ねた。
「まあ、そのことは後でゆっくりと君自身が考えればいい。わしは説明している暇がないんだ。それよりは早く、君の妻君に会ってくれ。……ほら、タクマ少年がやって来たぜ。あまり遅いから、催促に来たんだろう」
 なるほど、タクマ少年がいつものように顔を赤らめて、こちらへ笑いかけた。
「お客さん。さっきから奥様がお待ちかねですよ。お隣の部屋まで来ていらっしゃいます。その扉の向こうです」
 少年の指す方を、僕はおそるおそる見た。
「タクマちゃん。まだなの」
 美しい女の声が、扉の向こうでそう言った。
僕ははっとした。心臓が大きくどきりと打って、今にも破裂しそうになった。――聞いたような声だ。あれは誰かの声に似ている。
「もうちょっとお待ちになっていてください」
 タクマ少年が返事をした。
「いやよ。もうこれ以上待っていられないわ。あたし、そっちのお部屋へ、自分ではいっていきますわ」
 女の声と共に、その扉が静かにこちらへ向かって開きだした。

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