「さあ、今こそ君の妻君に会うんだ」
カビ博士が、僕の背中をどんと押した。
「ま、まあ待ってくれ――」
僕は困った。全身が火に包まれたようになった。心臓は機関車のボイラーのように圧力を高めた――扉は静かに開かれる。あ、見えた、若い女の頭髪が! 若い女の腕が!
「うーむ」
その瞬間、僕はうめき声と共に昏倒した。意識は濁ってしまった。一切の色彩も光も形も消えた……。暗黒の空間に、流星のようなものがしきりに飛ぶ。
「おい、本間君。こっちへ出て来いよ」
「……」
「おい。こっちへ出て来いと言ったら。そこに腰をかけていても、もう何にも見えやしないよ。この機械は、もう壊れてしまったんだから……」
「えっ、壊れた?」
僕は、やっと正気に戻った。あたりを見回すと、そこには鉄のような壁があるばかり。きらびやかな海底都市の市庁ホールもなければ、タクマ少年の姿も、僕の妻君だという女も、カビ博士も――いや、小さいひねくれたカビ博士である辻ヶ谷少年が、入口からこちらをのぞきこんで、しきりに催促の言葉を連ねている。
「今日はもう遅いから、早く帰らないと、途中があぶないんだ。さかんに強盗が出るというからねえ」
「強盗? 強盗って何だい?」
「何を言っているんだ、おい本間君。早くこっちへ出ろよ。このタイム・マシーンは故障になったと言っているじゃないか」
「えっ、このタイム・マシーンが故障に。なぜ故障なんかにしたんだ?」
「偉そうな口をきくね。なぜ故障になったか、僕は知らないよ」
「お願いだ、辻ヶ谷君。どうかもう一度、海底都市へ送ってくれたまえ。頼む。頼む」
僕は辻ヶ谷君に合掌した。
「だめだよ、僕を拝んでも……。停電になると厄介だ。さあさあ、早くこの地下室から出よう」
辻ヶ谷は中へ入ってきて、僕の手をとって引き立てた。
「どうしてもだめか。もう一度だけでいいから海底都市へ行かせてくれ。あと、一ヶ月向こうで生活させてくれれば、君にうんと御礼をするが――」
「よせよ。そんな気が変になるみたいな話は。それよりも、どこかで一本十円の闇屋の飴をおごってくれよ。その方がありがたい」
「だめだなあ、君は。もう一ヶ月僕を海底都市にいさせれば、僕は偉大な事業を完成し、そして君を市長に選挙して!」
「よせ、よせ。いつまで夢の中の寝言みたいなことを喋り続けているんだ。ほら、足元に大きな石ころがあるよ」
僕は、辻ヶ谷君に引き立てられてタイム・マシーンの地下室から出て、焼野原に立った。もうすっかり夜になっていた。西の空にうっすらと三日月がはりついていた。壊れた瓦の山を踏みしめながら、僕たちは焼け残りの町の方へ歩いていった。僕はだんだんと興奮から冷め、それに代わって疲労がやってきた。それでとうとう辻ヶ谷君におぶさって寮へ入った。すっかり疲れてしまって、今は何を考える余裕もない。カビ博士が最後に僕に言った「深い事情」の謎も、気にはなるが、まだ解いてはいない。しかしふと気がついたのは、僕の寿命は、あの夫人が僕に会いに来る少し以前に終わったのではなかろうか。しかもそれはあの海底都市ではなく、他の場所で終焉を迎えたのではなかろうか。それをカビ博士は知っているが、僕の妻君はまだそれに気がついていないという場合ではないのだろうか。いずれ疲労が治ったら、このことを筋道立てて考えてみるつもりである。ともかく今は休養のひと眠りが僕に必要なのだ。
初級翻訳・海底都市 第30話
海底都市
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