初級翻訳・海豹と雲 第4話

北原 白秋

食むんだ、白鷺、沼のぬしよ、
あのさざなみの揺り波を。
漁師は貧しくて、
むなしく水になげき合った。

【影】

月のひかりはそよかぜの
風並みを遠く楽しむ。
月のひかりはさざなみに
さらに満ちた、金の亀。
放て、心を、ひらひらと、
空と水とのなまめきに。
はかなくとも雲に鳥、
誰だろうか、はるか遠く影を追うのは。

【泉石】

萌黄色の月の眉引きに
鶴は啼いている、土のうえで。
水に揺れ合う風の影、
花はひっそりとひつじぐさ。
匂いもあどけない泉石の
色のあいだに混じり合えば、

蒼い夜どきは貴くて、
ほのかなるものすべてが愛おしい。

【山峡】

流れる風はホオノキの葉の
炎を洗うかのようだ。
ほのかに青い川ノリよ、
岩のぬめりを越す水よ。
嘆け、カジカガエルよ。
さわやかに
青いひと夜の物寂びを。
動きつづけるむら雲に
月の光は噴き出した。

【野菜】

月に輝くひと束は
紫うすい根の蓮(はす)。
群れろ、白鷺、この空の
霜の夜明けの濃い青を。
なにか貧しいけれど、ますます
心整う世の母よ。
白き野菜も籠のなかで
燃えて豊かに息づいている。

【初冬】

雲のさざなみ、月のしろい
流れと移るすばやさ。
黄色のスズカケの梢にも
風はそよぐ、あきらかに。
子供と踊るペルシャ猫
ヒョウの子供のように燃え立つが、

やりきれないな、父は目も冴えて、
鮎の塩辛をはかなんでいる。

【童女】

匂い立ちながら、現実には
揺れてしずまらない靄(もや)の色。
月のありかは見えているのに
ぼんやりと丸い、水のうえ。
童女よ、座りなさい、むらさきの
まつげに宿る露ならば。
はかなくとも、ほのぼのと
地球も燃えて巡っていく。

【われは見き】

わたしは見た、さざめく雪かと思った、
人参の花の月夜を。
植え終えた人が倒れて、
道の幅がますます照らされていたのを。
湧き上がる沖の煙が
むらさきに消えもやらずに、

神のようにうつくしいものが
鉄塔のうえに座していたのを。

【月夜の池】

わたしは観た、月の表面に
げっそりと痩せた笑いを。
三角帽子の白い人影、
夜は更けて池をまわっていたのを。
リンデンの枝は枯れ、
冬はまた貧しくなるのを。
光れ、鶴、
雪が軋んだ。【渚】

ああ、見てごらん、あの白い月を。
炎のように白く、
雲の翼ははるか遠くまで
流れていく。
釣り舟が漕ぎ出していく
入り江の近くでは、
さざ波が織りなす模様の中に
魚を入れる籠をひたしている。
光ることもなく、陰ることもなく、
夕方の満ち潮がやってくる。
裏表もなく、現実というものも忘れてしまう、
膝や、くるぶしに触れる水。
夕暮れよ、黄金虫が
羽音を立てて過ぎ去り、
サンゴジュの花の香りだけが
蒸し暑い空気に匂い立っている。
風を祭ろう。

【羽虫】

シジミバナやアケビの花が咲き乱れる、
質素なこの家の門の夏。
放射線のように――虫たちが醸し出している。
6と9と
  3と2と8。
数えきれないほどの輝く羽たち、
誰が知っているだろう、口元がかゆくなるような感覚を。
子どもたちだけが、つらそうに立っている。
6と9と
  3と2と8。
物悲しいね、待っていても、待っていなくても。
小さな鐘を軒先に吊るして、
撞木(しゅもく)で鳴らす。
――カン、カンと打つ音が響く。
6と9と
  3と2と8。
洗っておくれ、妻よ、シャコをひと籠分。
吹いてくる風は緑色に煙って、
「時」はちょうどいい、光が移ろっていく。
6と9と
  3と2と8。

【真昼】

神さまは誰だろう、青いハエを生み出すのは。
息をしている、野原で不思議なまどろみの中に。
何かがまた、言葉にできないほど良い香りで
咲き満ちている、鮮やかな黄色と白の花々。
聞いてみようか、ウィネツケよ、
月のように大きな、その居場所を。
みんなで思おう、遥か彼方の慈しみを。
貧しいことは幸せなこと、物悲しいこと。
田んぼには今、声を合わせるものたちがいて、
高く昇る青空に、よく響いている。
草むらには、現れては消える帯のように、
美しい子どもたちが揺れ動いている。
すべてが良い、陽炎がゆらゆらと、
鉄橋の赤を、その骨組みをなびかせながら進む。
真昼だ、夏は静かに、
日に焼けることの哀れさだけを匂い満たしている。

【架橋風景】

鉄工が鉄を叩いている。
カン、カンと叩く。
光が生まれる。
白い南風が吹く
木々の間だ。
朱色だ、明るい
橋の材料だ。
斜面だ。
いきいきと立つ
雑草だ。
カエルだ、
盆地で乾いている。
子どもだ、
子どもと憎しみ合っている。
聴け、この
満ち溢れる熱を。
聴け、ただ
こらえている息を。
一つだ、
怒っているものは。
鉄工が強く叩く。
カン、カンと叩く。

【鳶】

鳶よ、
晴れた空のラッパ吹き、鳶よ。
鳶よ、
栗の木の花が噴き出すように咲き、
鮮やかに緑がそよいでいる。
鳶よ、飛べ、
低い空を大きく。
鳶よ、ミミズクのような童顔の、
平凡で、善良な魂よ。
鳶よ、黒みを帯びた朱と金よ、
なんと豊かな肩の骨、
色めく翼の付け根よ。
鳶よ、ゆったりとした、
流れるような重みよ。
鳶よ、乗れ、そよ風に、
真に輝く世界の良心を持って。
鳶よ、民衆的な。
貧しく、それでいて真っ直ぐな。
鳶よ、震えろ、その力強い羽ばたきを、
ああ、この童話のような赤い屋根を超えていけ。
鳶よ、強欲は、暴圧は、
あの騒がしい出来事はどこから来るのか。
鳶よ、進め、
光が溢れかえっている。
鳶よ、
栗の木の花が噴き出すように咲き、
鮮やかに緑がそよいでいる。
鳶よ、
この俺も街頭に立つ、
堂々と
悪と闘うために。

【七月の朝】

木々は花盛り、
すずやかに、
風が光を
そよがせている。
昨日は過ぎ去った。
また新しく、
朝が子どもの
目に匂っている。
晴れろ、煙よ、
逃げ水よ。
明日の地平線が
ゆらゆらと揺れている。

【やや黄なる風景】

白い猫が枝の上で輝き、
ユリノキの枯れ葉が黄色い。
梢には少しの風、
光線はいつの間にか秋の色。
飛べよ、子よ、大きな窓から、
ガラス戸はもう開けてある。
午後は今、すべてが美しく、
軽気球が向こうに上がっていく。
それでも、黄色いドレスが歩いていく。
電柱は曲がり続けている。
菜園の斜面よ、坂よ、
風景は近くで動いている。

【草の香】

草の香りが
道を曲げている。
風景が
絶えず流れていく。
白い家が
窓を開けている。
カササギが
木の上に止まっている。
巻雲の下は
照り輝いている。
満ちて澄み渡る
大地のような響きだ。
草の香りが
はずみ、熟れている。
子どもたちが
子どもたちとやってくる。
濃い緑だ、
空が高くなっていく。
恐ろしいほどに
美しくなっていく。

【水盤の夏】

光が曲げる
バラの枝、
水には光る水の影。
夏がやってきた、
薄いガラスのように。
強く、寂しく、私はそこにいよう。

【風を祭る】

風を祭ろう、
太陽の光に祭ろう。
風を祭ろう、
草と木の緑に祭ろう。
風を祭ろう、
青空のガラスの宮殿に祭ろう。
風を祭ろう、
新しい潮の響きに祭ろう。
風を祭ろう、
川と中州の魚の鱗に祭ろう。
風を祭ろう、
菜園の斜面に祭ろう。

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