初級翻訳・海豹と雲 第9話

北原 白秋

鴨だ。
鴨がすべりあがる。
おお、
大きいうねりの窪みから――
深い深い底の奥から、
もこりもこりと盛りあがる、ぶ厚い波。
そのうねりの坂へさしかかって、揺られ、揺られて。
鴨の、なんと鮮やかな、
黄色い嘴(くちばし)だこと。
横を向いて、
留まると、高まりきったうねり波の峰が、
飛沫(しぶき)ひとつ立てずに、広くなだれていく。
平らに、
はるばるとした世界が見える。
鴨はすべる。
すうっと落ちてゆく、大きいうねりの窪みへ。
風もない穏やかなうねりの中、尾羽根を立てて、
なんとまた、光り輝いた、
叡智(えいち)の瞳よ。
鴨が、あ、隠れた。
大きいうねり波に、そうして、
見えない向こうの渓間にいる、
あの姿勢。
――
わたしは直感する。
おそろしく暗い、暗い、動いている
波の丘陵を透かして、
そこにある全くの静けさ、
虔(つつ)ましい頬の紫色。
鴨がまた、揺られて、
見えてくる。あ、出た、出た。
大きい、すばらしいうねりに乗って来る。
「おうおう。」とでも呼びかけたい。
いいかたちで、浮かんで。
ブラボー、万歳。
鴨はまかせる。
大きいうねりの意志に。
果てしもない韃靼(だったん)海のただなかだ。
小さい鴨の水掻き、
ぴったりとつけた胸毛の、
燃えるような濃い青。
鴨は一羽だ。
北へゆくほど遠くなる日の光だ。
空の世界も寒いが、
雲は深いが、また、
波は光らない。
見わたすかぎり光らない波。
平らに平らに見えても、また、
その実、
大きく大きくうねっているのだ。
鴨は啼(な)かない。
まったく黄色い嘴だ、そうして、
おお、おお、揺れてる、乗ってる、滑ってる。
小さい、整った、
美しい、きっちりした
鴨の姿。
一つの叡智。
ああ、一つの正しい存在。
あ、隠れた。
向こうへ落ちてゆく。
あ、出た出た。
ぴゆう――
指笛だ、俺のだ。
鴨はまかせる。
大きいうねりに座って、
盛りあがる、盛りあがる、ぶ厚い
底力に揺られる。
鴨は開けている、穏やかな眼を。
劫初(ごうしょ)からの海、韃靼の寒空。
しかも、夏、夏、夏。
どちらを向いても、
うねりの、
絶え間もないうねりの、
暗い、光らない、
おそろしく、また、穏やかな、
波濤(はとう)と波濤と波濤の連続。
ええ、ちくしょう、
鴨の尻。
夜が来る。
夜が来る。

熊人

白き熊、幽(かす)かなり。
極光(オーロラ)を載(の)せている。
人かとも思える、白き熊。
白き熊、凍え立ち、
氷原にひとり在り。
見はるかし、白き影。
白き熊は飢え迫られている。
荒天の雪に、ああ、
吹きつつむ白き雪。
白き熊は聴いている、今、
声なき声のうちに、
繁み澄む白き色を。
白き熊はまじろがず、
ひたと立ち、息つがず、
神去ると、白き息。
白き熊は輝けり。
氷原や、涯(はて)知らず、
夢は飛ぶ、白く飛ぶ。

春の蚊

幼童

物は見ているけれど、夢うつつではないか。
紋白蝶(もんしろちょう)か、おまえは。
(ああ、
  わが子や。)

日は暮れていき、風もひかるのを、
陽炎と自分とが分からなくなるのか。
(ああ、
  わが子や。)

頭がちで、ゆらゆら遊んで、
まだ飽きないのか、虫や花に。
(ああ、
  わが子や。)

荒地菊(あれちぎく)がむせぶような熱気に、
自然と催すのか、また。
(ああ、
  わが子や。)

幽けく、あえて小さく――
ひとすじに、おしっこをしているよ。

春

木いちごは
花に現れ、
幼児(おさなご)は
身軽に走り、
笹ごもり、
光りつぶやき、
蜂は巣を
営みはじめる。
閑かなる
春や、この朝、
我がこころ
こよなく遊ぶ。

日なか

櫨(はぜ)の花の
珠(たま)はみどりに、
塗畦(ぬりあぜ)の
ぬめり青めば、
水田には籾(もみ)も蒔(ま)かれた。
われや、はた、
  うつつの蝶や。
まさしくも春は過ぎ去るのか、
首の欠けた道陸神(どうろくじん)よ。

春の蚊

なにならぬ
つぶやきよ、ああ、
篁(たかむら)の
靄(もや)のこもりや。
なにならぬ
つぶやきよ、ああ、
墨を磨る
こころゆらぎや。
なにならぬ
つぶやきよ、ああ、
昼は闌(たけ)し
むらさきの地や。
なにならぬ
つぶやきよ、ああ、
春の蚊を
ふとし叩きぬ。

白藤

藤の花が軒に匂っている、
日が暮れて白い藤の並び。
松田(まつだ)にもほど近そうだ、
田舎馬車の角笛が吹いている。
帰ってきた道了薩陀(どうりょうさった)、
紫雲英(れんげ)田も後ろになってしまった。
草の香や、遊ぶ子どもや、
頭がちで、跳ねる足の裏。
この柔らかさ、小糠(こぬか)たつ杵、
それすらや、さみしい、このごろ。
うらがなし、田螺(たにし)ころころ、
夜の昴(すばる)にしぶく泡立ち。
どれもよし、余光の微塵、
脚を垂れて蜂もあがっている。「しっ。」
そんな声が聞こえるような気がするけれど、実際には何も聞こえません。
ここは牛舎です。
中は暗く、しんと静まり返っています。
腐葉土の匂い、ミルクの匂い。
暗闇にキラリと隠れる黄金虫。
ひっそりと揺れる牛の尻尾の先。
草のちりや屑、尿の匂い。
それに、食べかけの向日葵の花も、どこかでひっそりと燃えているはずです。
眼。眼。眼。眼。眼。眼。眼。
月夜であります。月夜であります。月夜である。
「お乳が張ったよ。マリアさま。」
トン。
「しっ、しっ。」
「しっ。」
あとはひっそり。ここが牛舎です。

鴨

鴨だ。鴨だ。鴨がすべりあがる。
おお、大きいうねりの窪みから――深い深い底の奥から、もこりもこりと盛りあがる、ぶ厚い波。
そのうねりの坂へさしかかって、揺られ、揺られて。
鴨の、なんと鮮やかな、黄色い嘴(くちばし)だこと。
横を向いて、留まると、高まりきったうねり波の峰が、飛沫(しぶき)ひとつ立てずに、広くなだれていく。
平らに、はるばるとした世界が見える。
鴨はすべる。すうっと落ちてゆく、大きいうねりの窪みへ。
風もない穏やかなうねりの中、尾羽根を立てて、なんとまた、光り輝いた、叡智(えいち)の瞳よ。
鴨が、あ、隠れた。
大きいうねり波に、そうして、見えない向こうの渓間にいる、あの姿勢。
――わたしは直感する。
おそろしく暗い、暗い、動いている波の丘陵を透かして、そこにある全くの静けさ、虔(つつ)ましい頬の紫色。
鴨がまた、揺られて、見えてくる。あ、出た、出た。
大きい、すばらしいうねりに乗って来る。
「おうおう。」とでも呼びかけたい。
いいかたちで、浮かんで。ブラボー、万歳。
鴨はまかせる。大きいうねりの意志に。
果てしもない韃靼(だったん)海のただなかだ。
小さい鴨の水掻き、ぴったりとつけた胸毛の、燃えるような濃い青。
鴨は一羽だ。北へゆくほど遠くなる日の光だ。
空の世界も寒いが、雲は深いが、また、波は光らない。
見わたすかぎり光らない波。
平らに平らに見えても、また、その実、大きく大きくうねっているのだ。
鴨は啼(な)かない。
まったく黄色い嘴だ、そうして、おお、おお、揺れてる、乗ってる、滑ってる。
小さい、整った、美しい、きっちりした鴨の姿。
一つの叡智。ああ、一つの正しい存在。
あ、隠れた。向こうへ落ちてゆく。
あ、出た出た。
ぴゆう――指笛だ、俺のだ。

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