初級翻訳・海豹島 第1話

久生 十蘭

二日前から、近ごろには珍しいほどの強い北風が吹き荒れていて、今日もまだやむ気配がありません。
東京で暮らし始めて十数年になりますが、これほど激しい北風は初めてです。
北風特有の、まるで何かに軋むような唸り声を聞いていると、二十数年前、氷と深い海霧に閉ざされた「海豹島(あざらしじま)」で体験した、あの出来事を思い出します。
子供たちはとうに寝静まり、広すぎる書斎に私だけが残っています。
虚空を満たす北風の悲しい歌声が、消し去れない記憶を呼び起こし、当時の事情をありのままに書き残しておこうという気持ちにさせました。

海豹島(ロシア語でチェレニ島、またはロッペン島といいます)は、樺太の東海岸、オホーツク海に浮かぶ絶海の孤島です。敷香(しすか)から海路で八十浬(約百五十キロメートル)、長さ二百五十間(約四百五十メートル)、幅三十間(約五十五メートル)という小さな島です。全体が第三紀の岩層からなるテーブルのような形の岩山で、そのまわりを静まり返った砂浜がぐるりと取り囲んでいます。

そこはアメリカ領のブリビロッツ群島、ロシア領のコマンドルスキー群島と並んで、世界に三つしかないオットセイの繁殖地です。この誰もいない砂浜は、毎年五月中旬から九月末ごろまで、オットセイたちの産屋となり、そして激しい情欲の寝床となります。
這い回り、挑みかかり、殴り合い、逃げ惑い、追いかける――そんな暗褐色の数万頭ものグロテスクな海獣たちの咆哮と叫び声は、空を切り裂くような無数の海鴉(うみガラス)の鳴き声と混ざり合い、騒がしく、うるさく、昼も夜も休みなく島を揺り動かします。

北海の海面にまだ流氷が漂っているころ、たいてい「成牡(せいぼ)」と呼ばれる、怪物のように巨大なオスが四、五十頭ほど先にやってきます。彼らは上陸しやすい場所を占領し、あとから来るメスたちを待ち構えるのです。
六月の上旬になると、頭が丸くて柔和な目をした花嫁たちの大群が、海を黒く染めながらやってきます。
すると、その奪い合いで浜辺は目も当てられない修羅場と化します。激しいケンカのせいで、たくさんのメスたちが無惨にも引き裂かれてしまうのです。

争いが一段落すると、この性欲の戦士たちは、それぞれ百匹ほどのメスを独り占めして自分だけの「ハーレム」を作り、飽くことなく情熱的な交尾を繰り返します。
そうなると当然、一匹のパートナーすら手に入れることのできない、不幸な青年たちがたくさん生まれます。甲斐性のない弱虫たちは、悲しそうな目で他人の寝室を盗み見ながら、少し離れた砂浜の隅っこに集まり、しょんぼりと独身生活を送るしかないのです。
どうにもならない彼らは、メスを追い詰めて溺死させたり、魚をむやみに食い散らかしたりして、わずかな慰めにします。
そうして九月の末ごろになると、ほの暗い夜明けや月がきれいな晩に、「役立たずめ」という理由で、一匹残らず「撲殺夫(ぼくさつふ)」たちに殴り殺されてしまうのです。
銀座を散歩するご婦人や令嬢たちのコートについているオットセイの毛皮は、実はこの不幸な青年たちの形見なのです。

明治三十八年、この特別な島が日本の領土になると、狩猟を禁じ、樺太庁では毎年監視員を送ってオットセイを保護していました。しかし、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」)を結ぶ見通しが立ったため、条約締結と同時に狩猟を始めることになりました。同年夏、大工と土工を送り、オットセイを数える櫓(やぐら)や監視所、皮を剥ぐ場所、毛皮を塩漬けにする場所、乾燥室などの建設を急ぎましたが、海路が閉ざされる十一月下旬になっても完成しませんでした。

翌年(大正元年)の五月、開所式に間に合わせるため、仕方なく大工と土工を二名ずつ、さらに皮剥ぎ職人を一名残して冬を越させ、仕事を続けさせることにしました。その監督として、清水という水産技手をつけました。
当時、私は樺太庁農林部水産課の技師で、オットセイ狩猟事業の責任者でした。五月八日の開所式に先立ち、設備の完成を見届けるため、部下の技手を一人連れて、三月上旬、その年最初の郵便船に乗り込み、氷が漂う危険を冒して海豹島へ向かうことになったのです。
開所式にはアメリカやロシアの技術者もやってくるため、恥ずかしくないよう準備を整えておく必要があったのです。

【海豹島滞留日誌】

第一日
一、三月八日、大泊(おおどまり)港を出帆した第二小樽丸は、翌々日の十日、午前十時ごろ、海豹島の西海岸、四浬(約七キロメートル)ほどの沖合に到着した。
風向きが変わり、海霧が流れてくると、雲なのか煙なのかわからない灰色の混濁の向こうから、雪をかぶった、生気のない陰鬱な島の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
しかし、それも束の間。瘴気のような不気味な霧がまたもや島を朦朧と包み込み、まるで人間の目に触れるのを嫌がるかのように、急速に島を隠してしまった。姿を現したときと同じように、島は真っ白な霧のなかへ沈んで消えてしまった。

一、その島をひと目見た瞬間、私はなんとも言えない深い憂鬱な気持ちに襲われた。
心は重く沈み、孤独感が強く胸を締め付けた。
この突然の憂鬱は、何によって引き起こされたのだろうか。
陰鬱な島の風景が心を傷つけたのだと考えるほかはない。あるいは、虫の知らせのようなものだったのかもしれない。
それは悲しみと不安と絶望に満ちた、つかみどころのない感情だった。私は船の端(舷側)にもたれかかり、島がまるで幻のように消えてしまったあたりをぼんやりと眺めていましたが、心のどんよりとした重苦しさは深まるばかりで、何をする気力も湧いてきませんでした。
この年は例年にない厳しい寒さだったため、海氷がすさまじい勢いで広がり、氷の原の端から海岸までは四浬(約七キロメートル)以上も離れていて、島へ渡るにはソリを使うか、歩いて行くしかありませんでした。
この厄介な状況が、私の憂鬱をいっそうかき立てました。
島の視察は非常に重要な任務でしたが、あれこれと迷った末、部下の技手に事務を代行させることに腹を決め、正午近く、米や野菜、その他の食料を積んだソリとともに彼を島へ送り出しました。

部下から報告を受け次第、すぐに島を離れて一度敷香(しすか)へ戻り、そこから陸路で庁へ帰るつもりで船長室の暖炉のそばに座っていましたが、まもなく船に戻ってきた部下の報告によって、この島で大変な出来事があったことを知り、予定通りに行動することができなくなりました。
それは、今年の一月四日の夜、乾燥室から出火し、塩蔵所の一部と人夫小屋を除いてすべての建物が灰になり、狭山良吉という皮剥ぎ職人が一人助かったほか、清水技手ら五名が焼死したという惨事でした。
そのため、責任者として事件を詳しく調査し、その結果を上司や警察部に報告する義務が生じました。しかし、乗ってきた「第二小樽丸」は、逓信省の命令で走る郵便船であり、遠浅や遠内、敷香などの町へ届ける郵便物を積んでいるため、調査が終わるまで沖合に待たせておくわけにはいきません。
やむを得ず、敷香から電信で事件の大まかな内容を本庁へ報告するよう部下に命じ、帰りの航路で再び島に寄ってもらうことを条件に、私が島に残ることになりました。

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