「ほら、聞こえるでしょう? 向こうの部屋から、コトリ、コトリと聞こえてくる音が……。あれが、今お話しした糸車なんです。でも、こんな時に、一体だれが回しているんでしょうねえ」
朝枝はそれ以上あやしむような様子は見せずに部屋を出ていきましたが、彼女がいなくなった部屋の中は、しんと静まり返り、暗闇のどこかから誰かがじっと見つめているような気配が漂いました。何か重大で恐ろしい力が、ゾクゾクと身に迫ってくるのを感じずにはいられません。
これまでは「いつか笑い話になって消えるだろう」と、ぼんやりした希望を抱いていましたが、今やそれは激しく吹き荒れる嵐となって襲いかかってきたのです。法水と検事の二人が部屋のしきいまで歩いて行ったとき、ハッと頭を殴られたように、思わずすくみ上がってしまいました。
コトリ、と微かな音が一つ響いたかと思うと、その長い余韻に重なるようにして、奥の部屋から目の見えない人たちの話し声が聞こえてきました。しかし、二人が感じた恐怖は、もちろんその声のせいではありませんでした。
その部屋には、古びて色あせたカーテンがだらりと垂れ下がっているだけでした。その奥の窓にも、部屋の隅にある暖炉にも、それぞれ鍵や扉がしっかりと閉められています。それなのに、暖炉の前にある糸車を見ると、巻きついていた糸が何本もほどけて外れており、明らかに「だれかの手」が触れたことを物語っていたのです。
だれ一人入ることができないはずのこの部屋で、糸車が回されていた。この恐ろしい異変こそ、法水が最初に防波堤の上で想像していた「ある人物」の、目に見える形となって現れた最初の証拠だったのです。
そのうえ、足の不自由な八住が毎晩のようにこっそり外出していたという事実は、謎の渦をさらに引き締め、すべての怪しい出来事が、あの潜航艇「鷹の城」へと集まっていくことを示していました。二人はこの短い時間の間に、体中のエネルギーをすべて使い果たしてしまったかのような、ものすごい疲れを感じました。
やがて、もとの部屋に戻ると、そこにはウルリーケが、いじわるそうな微笑みを浮かべて二人を待っていました。
二、鉄仮面の舌
ウルリーケの顔は、うす暗いランプの光の中で、妙に頑固で、トゲトゲしく鋭い表情に見えました。
しかし、二人が席につくと、彼女は待ちきれないといった様子で話し始めました。
「また、朝枝が何か余計なことをしゃべっていたようですね。
私には、あの子がさっきの『アマリリス』の件といい、どうして生みの母親である私のことを、あんなにまで憎もうとするのか、さっぱり理由が分かりませんわ。
ですが、八住が毎晩、決まって夜明け前になると、あの『鷹の城』が停まっている岬の角へ出かけていくことだけは、まぎれもない事実です。
どうして、あんなに不自由な体をおしてまで、八住はそうしなければならなかったのでしょう?
そこへきて、あなたは『毎晩、防波堤にやってくる男がいる』とおっしゃる……。
ああ、あの恐ろしい夢が、だんだんと現実の濃い霧のようになって、迫ってくるではありませんか」
「なるほど。ですが、他人の夢のことは気にしないで、あなたご自身の悪夢について、どうぞお話しください」「ときどき、トリエステの血のように真っ赤な悪夢を見るのではないですか?」
法水がなにか不気味なことをほのめかすと、ウルリーケの顔は一瞬でカチコチにこわばり、まるで暗い雲のような影がさっと広がりました。
「悪夢……。ということは、あなたはシュテッヘのことをおっしゃっているのですね。なるほど、あの方が姿を消したときには、テオバルトも一度は疑われましたわ。現にウィーンの人たちは、そんな迷信じみた考えを今でも信じています。いつまでもテオバルトのことを、呪われた『さまよえるオランダ人』の幽霊船のように考えていて、シュテッヘという悪魔のような男を傷つけたから、七つの海をさまよい続けなければならなくなったのだと信じているのです。でも、あんなに強い友情で結ばれていた二人の間に、どうしてそんなことが起こるというのでしょう……いいえ、分かりましたわ。――あなたもやっぱり、シュテッヘが消えたことについて、テオバルトを疑っているのですね。いいでしょう。もし、どうしてもそんな夢のような話を信じ続けるというのなら、防波堤にやってくるあの男がシュテッヘだということを、証明してもらいましょうか」
「ところが奥さん」
突然、法水の体からゾクゾクするようなすごい迫力がみなぎり、こう言いました。
「ところが、そのオランダ人を呪いの鎖でしばりつけた悪魔は――とっくの昔に死んでいるのですよ。いや、はっきり言いましょう。『鷹の城』が遭難したあの夜、潜航艇の中で死んだのは、本当は艇長ではなく、その悪魔のほうだったのです。そして、もう一方のオランダ人は、とうの昔にトリエステで行方不明になっていましたが、それからもずっと『鷹の城』から離れず、不思議なやり方で生き続けていたのです。どうですか奥さん、あなたには、この例え話の意味が分かりますか」
それはまるで、恐ろしい魔法が目の前で本当に使われたかのような、息の詰まる瞬間でした。
検事もウルリーケも、まるで石の彫刻のように固まってしまいました。もし二人の心臓がまだ動いていたとしても、目には何も映らず、耳にも何も聞こえなくなってしまったのではないかと思えるほどでした。
やがて、ウルリーケのくわえていた湿ったタバコが、唇からポタリと床に落ちましたが、彼女の姿勢は少しも動きませんでした。
法水は、暗い海のほうを怖そうに見つめながら、さらに言葉を続けました。
「つまり、ヴェネチア湾の冷たい海底で、生きたまま姿を消したのは、シュテッヘではなく、フォン・エッセン艇長だったのですよ。もっと分かりやすく言えば、シュテッヘをこっそり隠した潜水艦『URー4号』に乗り込んだのを最後に、艇長としてのこの世での生活は終わってしまったのです。なぜならそのとき、艇長はシュテッヘの身代わりとして、生きているとも死んでいるともつかない不思議な方法でこの世から消し去られ、シュテッヘはその瞬間から、フォン・エッセン艇長になりすましたからです。ですから、その後にあなたの部屋を訪れた夫も、コマンドルスキー諸島の海底で亡くなった艇長も、どちらもシュテッヘだったのです。そしてさらに不思議なことに、本物の艇長は、そのまま『鷹の城』の中で、だれの目にも見えない秘密の生活を続けていました。だから私は今、その海をさまよう本物の艇長が、防波堤の上に現れるということを証明しようとしているのですよ」
「だとしたら法水さん。その一人二役というお話を、おとぎ話ではなく、本物の事実として証明できるのかしら?」
ウルリーケはバカにするような笑みを浮かべて言いましたが、その声には、恥ずかしさと激しい怒りを隠しきれていませんでした。
「だいたい、他人の姿に変装するなんてことは、小説の中なら簡単でしょうけれど、現実には絶対に不可能なはずですわ。
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