初級翻訳・火星兵団 第105話

海野 十三

地球とモロー彗星の場合とはわけが違うのだからね」
新田先生はそう言ったけれど、千二が見ていると、先生の言うとおり、ぶつかるかと思った二つの月は、いつの間にか左右に分かれて、今度は少しずつ離れていった。
「なるほど、ぶつかりませんでしたね!」
千二は、感心しながら言った。
「地球とモロー彗星も、あんなふうに、うまくぶつからずに、すれ違ってくれたらいいのだが……」
新田先生は、しみじみとした声でそうつぶやいた。
どうやら先生の頭の中には、いつも地球のことが心配でいっぱいこびりついているようだった。

そのころ操縦室では、蟻田博士が、ロロ公爵とルル公爵の二人に向かって、熱心に話を続けていた。
「……それじゃあやっぱり、カリンの岬に大空艇を着陸させますかね?」
と博士がたずねると、
「それがいいですよ。
カリンの岬なら、丸木(まるき)の手下どもが攻めて来ようとしても、ちょっと手間取らせることができますからねえ」
と、ロロ公爵が賛成した。
「あそこには、水の中に隠された洞窟があったですね」
と、蟻田博士がたずねた。
「そうです。
カリンの下にある洞窟のことですね。
あそこは、身を隠すのに持ってこいの場所ですよ」
「そういえば、その洞窟と岬の間には、秘密の抜け道のようなものがありましたね」
「ああ、ありますとも。
五つの扉をあけないと通れませんが、ちゃんと階段がついているんです」
「その扉は、どうすれば開くのでしたかねえ」
「特別な呪文を唱えればいいのです」
「その呪文とは?」
「『ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレ』と言えばいいのですよ」
「難しい呪文ですなあ。
ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレ、か」
蟻田博士は、口をもぐもぐさせながら、この言いにくい呪文を何度も繰り返した。

「ところでロロ公爵、あなたは火星へ帰ったら、すぐにでも兵をあげて仲間を集められますか?」
「ええ、やりますとも!
ルルが、絶対にやると言って今から気合十分なんですから」
ロロ公爵はそう言って、そばに静かに控えていたルル公爵をふりかえった。
ルル公爵は、もともとおとなしく、だまっているのが好きだった。
この間の病気以来、ルルは前よりもいっそう口数が少なくなっていた。
何かをしゃべるのは、いつも兄のロロばかりなのだ。
火星の王子であるこのロロとルルの兄弟は、蟻田博士のおかげでピンチを救われ、地球ですくすくと大きくなったのだが、こんどついに対の火星へ帰ることになったので、すぐに旗をあげて、もとの王家をもう一度立派に盛り上げようと計画していたのだ。

「旗をあげるとしたら、どこを大きなお城の本拠地とするのですか?」
蟻田博士は、心配でたまらないので、今のうちに何でも聞いておかねばならないと思っていた。
「本拠地はですね、クイクイ運河の広がりを目の前に見渡せる、ペペ山におくつもりです」
「なるほど、ペペ山ですか。
ペペ山なら、なかなかに素晴らしい場所ですね。
あの切り立ったような崖(がけ)は、本当にかっこいい。
わしも前にもう一度火星へ行ったときには、ペペ山へは時々いってみましたよ」
「ペペ山は、私たちの祖先たちが、いつの時代も大切にしてきた場所です。
祖先たちの魂が、あの山いっぱいにこもっているんです。
それに、何か大変なピンチが起きたときには、不思議な奇跡が起きて私たちを守ってくれる、ありがたい霊山なんですよ。
前に行ったときは、あの山を敵にすぐ奪われてしまったから、うまくいかなかったのです」
ロロ公爵は、しみじみとした声でそう語った。

そのころ、千二少年は、新田先生とならんで窓の外をじっと見つめていた。
反対の方向へとまわっていく火星の二つの月は、だんだんと両方へ離れていく。
見れば見るほど、不思議でたまらない月だった。
「先生、ぼくはなんだか、夢を見ているような気がします。
いま、ぼくは本当に、火星のすぐそばまで来ているのでしょうか?」
「そう思うのも無理はないさ。
わたしにとっても、火星へ来るのは初めてなんだ。
やっぱり、夢を見ているような不思議な気持ちがするよ」
先生も、千二とおなじようなことを言った。

そのうちに、どうしたわけか、あたりが急に真っ暗になってきた。
「おや、暗くなってきたぞ!」
千二少年は、窓ガラスがどうかしてしまったのかと思って、自分の服のそでで、しきりにガラスをごしごしとふいた。
だが、そんなことをしてもまったく意味はなく、あたりはますます暗くなっていく。
「おやおや、火星が見えなくなってしまった!
さっきまであんなに美しくキラキラ輝いていた火星が、急にすがたを消してしまいました。
先生、これはいったいどうしたわけですか?」
すると新田先生は、しずかにうなずいて言った。
「千二君、窓ガラスをよく見たまえ」
「えっ、窓ガラスですか?」
「ガラスの上に、何か見えないかね?」
「うーん、どうだろう……」
千二がよく見ると、外側からガラスの上に、なんだか黒い粉のようなものが猛烈に吹き付けられていた。
「あっ、この黒い粉みたいなものは、いったい何でしょう?」
「わかったかね?
あれは火星の塵(ちり)だよ。
つまり、火星のまわりを、細かい塵の厚い層がすっぽり包み込んでいるんだ。
それを火星塵の層と言っているのだが、いまわれわれは、まさにその塵の層の真ん中に突入したというわけさ。
だから、こんなにまっ暗なんだよ」
「ああ、そうだったんですか!」
千二は、なんだか急に、ものすごく心細い気持ちになった。まるでまっ暗な井戸の中へ、おちこんだような気がしたからである。
まっくらなんて、嫌なものである。
大空艇の外は、なんにも見えない。
「さっきまで見えていた火星が、急に見えなくなるなんて、へんだなあ。
火星に近づいたから、もっと見えなければならないわけだがなあ」
 千二は、顔をしかめている。
「それはね、土けむりの中に、はいっていると向こうが見えないが、土けむりの外からだと、土けむりをとおして、向こうが見えるのと同じだよ」
「へえ、そうですか」
「だから、いまに火星塵を通りぬけると明かるくなる。
火星の表面がはっきり見えるようになる」
「そうですかね」
 と言っているうちに、あたりは急に明かるくなったような気がした。
「あっ、火星がまた見えだした。
ああ、きれいだなあ」
 千二は、驚きと喜びとが一しょになった。
火星は、もう大きな鏡のようになり、そうして、まぶしいほど明かるかった。
それは火星塵を通り越したからであった。
始めて、すきとおった空をとおして、火星を見るのであった。
ああ火星のすがた!
 火星は、地球と同じように海らしいものもあるし、また陸のようなところもあった。
ただ不思議なのは、真白に光る、かなり広い円形のところがあった。
「ああ、あれかね。
あれは、火星の極だよ。
大変寒いところで、あの白いところは雪と氷がつもっているのだ。
そこへ太陽の光が照りつけて、あんなに美しく光っているのだ」
 ああわが太陽! このはるかな火星に来てみても、あの太陽だけは、この地球と同じ太陽が照りつけているのだと思えば、何だか急に、太陽がなつかしくなった。

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