初級翻訳・石ころ 第5話

山本 周五郎

「これがおれのたのしみでね」

六

「これがおれのたのしみでね、そう言ったときの目の輝きは、本当に穏やかなものでした。つい半時間前まで、戦場の埃(ほこり)を浴びて馬を走らせていた人間だとはとても信じられないほど、のんびりとしていて、どこかぼんやりと広い世界を見つめているような感じでした」
万三郎はそう語りながら、あらためて父の顔を見つめ、こう続けました。
「そして、多田はついに自分の本心を明かさなかったのです。本人が『そんな覚えはない』と言ううえに、山県善右衛門(やまがたぜんえもん)までが『俺が見た』と証言してしまったので、木暮弾正(こぐれだんじょう)を討ち取った手柄は、結局わたくしのものになってしまいました。それ以上に『いや、本当は多田が……』と主張したりすれば、かえって変な疑いをかけられそうにさえなったのです」
「変な疑いとは、いったいどういうことだ?」
「わたくしが、わざと自分の義理の弟に大きな手柄をゆずってやっているのではないか、とあからさまに疑う者さえいたのです」
「なるほど、そういう見かたをする者もいるわけか」
「しかし、弾正を討ったのはまちがいなくかれでした。しかも弾正ひとりではありません。わたくしが見ただけでも、ほかに二人の立派なよろい武者を仕留めています。おそらくその二人も、木暮弾正がわたくしの手柄として記録されたのと同じように、ほかの誰かの手柄として功名帳に書き留められたことでしょう。そして……当の多田新蔵は、今回も敵の偉い武将を討ち取ったという首一つの手柄すら、自分のものとして記録されずに終わってしまったのです。いったい、これはどういうわけなのでしょうか」

 高天神(たかてんじん)の城は、敵の主将である小笠原長忠(おがさわらながただ)が降伏したことによって攻め落とされ、六月十七日に開城した。
 そして武田勝頼(たけだかつより)は、岡部丹波守(おかべたんばのかみ)と横田伊松(よこたいしょう)に、本陣の精鋭を加えた三千余りの兵を残して守らせ、自分たちはいったん甲斐(かい)の国へと凱旋(がいせん)した。
 ……多田新蔵よりひと足さきに甲府(こうふ)へと帰っていた万三郎は、なによりも真っ先に、新蔵のあの不思議な戦いぶりを父に語聞かせたのである。
 その場には、妹の松尾(まつお)もいた。彼女は兄の凱旋を祝いにやってきて、思いがけず夫の戦いぶりを聞くことになったのだった。

「なぜそんなふうにするのか、その理由がおまえにわからないのは当然だ」
秋山伯耆(あきやまほうき)はしずかに口を開いた。
「この父もかつて、多田新蔵といっしょに四度も戦場へ出たことがある。そして、おまえが目の当たりにしたのと同じ事実を、何度もこの目で見てきたのだ」
「父上もですか、父上もごらんになったのですか?」
「新蔵はまっすぐに強い敵へと挑みかかる。そして討ち倒せば、相手をそのまま飛び越えて前へ突っ込む。相手がどんなに名の知れた者であっても、見向きもしない。その首ひとつで千貫(せんがん)もの褒美が出るような相手であっても、地面に討ち伏せてしまえば未練ひとつ見せずに次ぎへと突進する。おれはそれを何度も見た……。そして戦が終わって功名帳が調べられても、かれには敵の首を取ったという手柄は一切記されていない。『誰それを討ち取ったのは多田ではないのか』と言い出す者がいても、当人は『知らない』と言うし、大乱戦の中のことでもあるし、実際に首を持ち帰った者がすでに『自分がやった』と名乗り出ているものだから、そのままうやむやになって落ち着いてしまうのが常だったのだ」
 秋山伯耆はふと目を閉じ、当時をしみじみと回想しているのだろう、しばらく黙っていたが、やがてまたしずかに言葉を続けた。
「世間の人間はなにも知らずにかれを笑う。『動きがどんくさい』とか、『武功の者として堂々と名乗りもできない臆病者だ』とか……。だが、事実はいま話したとおりだ。かれは誰にも真似できない、人目を引くような大きな手柄をいくつも立てているのだ。しかも、世間がどんなに自分をバカにして笑おうとも、当の新蔵は一言の言い訳もせず、ただ黙ってその笑いものに耐えている……。いったいどういうつもりなのだろうか、とおれも最初は不思議に思ったが、やがてそのわけがはっきりと分かったのだった」

 松尾は全身を耳にして、夫の本当の姿についての言葉を、一語たりとも聞き逃すまいと父の口もとをじっと見つめていた。
「そもそも合戦とは、敵をうち負かすことが一番の根本だ。戦いは勝たなくてはならん。勝つためには、一人でも多くの敵を倒すことが、戦う者のなによりの心得なのだ。いかに敵の首を取ったという手柄が多くても、肝心の戦に負けてしまってはなんの意味もない。いちばん大切なのは『勝つこと』だ。勝つために、一人でも多くの敵を討ち倒すことだ……。新蔵はまさにその心得だけで戦っているのだ。一番槍の功名も、大将の首も、そんなものはどうでもいい問題なのだ。ただ一人でも多くの強敵を討ち取って、この合戦に勝とうとする。それだけなのだ。他人が自分をなんと悪く言おうとも、自分の本当の姿は、かれ自身がいちばんよく知っている。かれこそは、ほんものの、まことの戦士と言わねばならんのだ」

 万三郎はガクリと頭を垂れ、両手で自分の膝頭をぎゅっとしっかりとつかんでいた。
 伯耆は娘のほうをゆっくりとふり返った。
「おまえは多田へお嫁に行ってから、夫のそんな様子を見て、なんだか少しがっかりしたようだったな。おれにはおまえの気持ちも察しがついていた。けれども、多田の本当のすばらしさは、いつかきっとわかる日が来る、わかる時が必ずやってくると信じていたから、あえてなにも言わなかったのだ……。
 名誉も求めず、出世や栄達も求めず、ただ一人の誇り高い戦士として、誰に褒められずとも黙々と自分の信じる道を生き抜く。多田新蔵はそういう真の武士(もののふ)なのだ。……わかるか、松尾よ」

 松尾は、胸をギューッと引き裂かれるような強い痛みを覚えた。
 いつの日か、夫が「石ころの素朴さ」について語ってくれたとき、自分は夫の本当の心を見抜いたのだと思い込んでいた。「やっぱり世間の噂どおりの、少し変わったパッとしない人だったんだ」と、勝手に思い込んでしまっていた。
 なんて浅はかで、自分のことしか見えていない独りよがりな考えだったのだろう。
 世間のいい加減なうわさ話を心の中で笑いながら、自分自身もまた、夫の本当の真実を見つけることができていなかったのだ。

――本当に申し訳ございませんでした。どうか、こんなにも浅はかな私をお許しくださいまし……。父の家を辞めて自分の屋敷へ帰るまで、松尾は心のなかでずっとそう叫びつづけていました。
そして屋敷へ帰り着くとすぐに、あのときの手箱をとりだしてきて、そっと蓋をあけました。
そこには前と同じように綿が敷かれていて、いくつかの小石がはいっていました。形も色もふつうの、どこにでもある道端の石です。
じっと見ていると、「おれはこんなのがたまらなく好きなんだよ」という夫の声が聞こえてくるようでした。

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