初級翻訳・碁石を呑んだ八っちゃん 第2話

有島 武郎

お口を開けてごらんなさい。
お口ですよ。
こっちを、明るい方を向いて……ああ、碁石を呑んだんじゃないの!」
そう言うと、握り拳を固めて、八っちゃんの背中を続けざまにたたきつけた。
「さあ、かーっと言って吐き出しなさい……それ、もう一度……どうしようかねえ……八っちゃん、吐くんですよ!」
婆やは八っちゃんをひざの上にぴったりと抱き上げて、またその背中をたたいた。
僕はいつの間に来たのか、いつの間にか婆やのそばまで来て、立ったままで八っちゃんの顔を見下ろしていた。
八っちゃんの顔は血が出そうなほど真っ赤になっていた。
婆やはしどろもどろになりながら、
「兄さん、あなた、早くいって水を一杯……」
と言った。
僕は最後まで聞きもせず、縁側に飛び出して台所のほうへ駆けていった。
水を飲ませさえすれば、八っちゃんの病気はきっと治るにちがいないと思ったからだ。
そうしたら、婆やが後ろからまた呼びかけた。
「兄さん、水は……早くお母さんのところにいって、早く来てくださいと……!」
僕は台所に行くのをやめて、今度は一生懸命にお茶の間のほうへ走った。
お母さんも障子をあけ放して日なたぼっこをしながら、静かに縫物をしていらっしゃった。
そのそばで鉄瓶のお湯がいい音をたてて沸騰していた。
僕には、そこがあまりにも静かなことがなんだか変に思えた。
八っちゃんの病気はもう治っているのかもしれない、とも思った。
けれども胸の中は、まるでかけっこをしている時のようにドキンドキンと鳴っていて、うまく言葉が出てこなかった。
「お母さん……お母さん……八っちゃんがね……こうなっているんだよ……婆やが早く来てって」
と言いながら、八っちゃんがしていた通りの真似をその場で立ったまま見せた。
お母さんは少しだるそうな目をしながら、にこにこして僕を見たが、僕の姿を見るやいなや、急に二つ折りにしていた背中をまっすぐになさった。
「八っちゃんがどうかしたの?」
僕は一生懸命、真面目になって、
「うん」
と思いきり頭を前の方へこくりと下げた。
「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」
僕はもう一度、さっきと同じ真似をした。
お母さんは僕を見て思わず笑いそうになられたが、すぐに心配そうな顔になり、大急ぎで頭に差していた針を抜いて針山に刺すと、慌てて立ち上がり、前掛けの糸くずを両手ではたきながら、僕の後をついて婆やのいる方へ駆けていらっしゃった。
「婆や……どうしたの?」
お母さんは僕を押しのけて婆やのそばに駆け寄り、こうおっしゃった。
「八っちゃんが、あなた……碁石でもお飲みになったんでしょうか……?」
「お飲みになったんでしょうか、どころじゃないじゃないか!」
お母さんの声は、本当に怒った時の声だった。
そしていきなり、婆やからひっくらうように八っちゃんを抱き取り、自分が苦しくてたまらないような顔をしながら、バタバタと手足を動かしている八っちゃんをよくご覧になった。
「象牙のお箸を持ってまいりましょうか……それで喉をなでますと……」
婆やがそう言いかけるか言いかけないかのうちに、
「魚の骨が刺さったんじゃないんだから……兄さん、あなた、早く行って水を持っていらっしゃい!」
とお母さんは僕の方をご覧になった。
婆やはそれを聞くと立ち上がったけれど、僕は、婆やが八っちゃんをあんなふうにしてしまったんだと思ったし、そもそも用事を頼みに行ったのは僕なのだから、婆やの走るのを追い抜くようにして台所へと駆け出した。けれども、お茶碗を探してそこにお水を入れるのは、婆やのほうが早かったんだ。
僕はくやしくなって、婆やにむずかりかかった。
「お水は僕が持ってくんだい! お母さんは僕に持ってこいって……」
「そんなこと言ってる場合じゃありませんよ!」
婆やは怒ったような声を出して、茶碗を持っていないほうの手で僕をばしっと振りはらい、八っちゃんのほうへ行ってしまった。
僕は、婆やにあんな力があるなんて思っていなかった。
僕は、
「僕だい、僕だい、お水は僕が持って行くんだい!」
と泣きそうになりながら怒って追いかけたけれど、婆やがお水をいそいそとお母さんの手に渡すまで、どうしても追いつくことができなかった。
婆やがあんなにお水をこぼさずに、すごく早く走れるなんて思わなかったな。

お母さんは婆やからお茶碗を受け取ると、すぐに八っちゃんのお口のところへ持っていった。
半分くらいはえり首にこぼれちゃったけれど、それでも八っちゃんはお水を飲むことができた。
八っちゃんはむせ返って、苦しそうに、両手で自分の胸のあたりを引っかくようにした。
胸元のところに、僕が折ってあげた「だまかし船」が半分だけ顔を出していた。
僕は、八っちゃんが本当にかわいそうでたまらなくなった。
あんなに苦しんでいるんだから、きっと死んじゃうにちがいないって思ったんだ。
死んじゃいけないけれど、絶対に死んじゃうんだって思い込んでしまった。
さっきまでくやしがっていた僕は、急にものすごく悲しくなった。
お母さんの顔が真っ青で、手がぶるぶる震えていて、八っちゃんの顔は真っ赤で、もう普段の八っちゃんのお顔じゃなくなっているのを見たら、なんだか自分ひとりぼっちに取り残されたような気がして、我慢できなくて涙がぽろぽろあふれてきた。

お母さんは、僕がシクシク泣き始めたことになんて気づきもしないで、夢中になって八っちゃんの看病をしていなさった。
婆やはひざをついたまま覗き込むようにして、お母さんと八っちゃんの顔がくっつきそうになりながらお世話しているのを見おろしていた。
そのとき、八っちゃんが胸にあてがっていた手をぱっと放して、びっくりしたような顔をしたと思ったら、いきなりいつものような大声を出して「わあーーっ!」と泣き出したんだ。
お母さんは夢中になって八っちゃんをギュッと抱きしめた。
婆やは息を弾ませながら、
「通りましたねえ、まあよかったこと……!」
と言った。
きっと、喉につかえていた碁石がお腹の中にスポンと入っていったんだ。
お母さんも、少し安心なさったような顔をされた。

僕は泣きながらもお母さんのお顔を見たら、その目に涙がいっぱいたまっていた。
そのときになってお母さんは急に思い出したように、お医者さんのところへ走るように婆やに言いつけた。
婆やは何度もピョコピョコと頭を下げて、前掛けで顔の汗を拭きながら、急いで走っていった。
大泣きしている八っちゃんをあやしながら、お母さんはキリッとした厳しい目で僕を見て、「早く碁石をしまいなさい」とおっしゃった。
僕はまるで先生に怒られたような、悪いことをしてしまったような気がして、大急ぎで、白い碁石も黒い碁石も関係なく、ごちゃ混ぜのまま入れ物にドバッと片付けた。

八っちゃんは、お布団の上に寝かされた。
どこも痛くはないみたいで、泣き止んでは、また急になにかを思い出したように「わあーーっ!」と泣き出すのだった。
お母さんは、
「さあ、もう大丈夫よ、八っちゃん。
どこも痛くありませんよ。
そんなに弱い子になって泣いちゃダメ。
かあちゃんが優しくさすってあげるからね、もう泣くんじゃないの。

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