初級翻訳・神州天馬侠 第8話

吉川 英治

どれ、俺はこれから夜明けまでに、お行き先を見つけ出して、お望みの場所までお供をするとしよう」
「この痴れものが!」
忍剣は心の底から腹が立って、ふたたび鉄杖(てつじょう)をぎゅっと握りしめたとき、はるか裾野の向こうに、ただならぬ光を見つけました。
六部の木隠龍太郎もそれを見つけました。
ふたりはパッと目を凝らし、しばらくの間、言葉もなく立ちすくんでしまいました。
それはまるで大蛇が這う陣形のように、うねうねと、裾野のあちこちからはい回る一条の火の影です。たくさんの松明(たいまつ)が右往左往しているに違いありません。
「あそこだ!」と言うが早いか、龍太郎は一足跳びに石段から飛び降りました。
「おのれ、貴様の手に若君を取られてたまるか!」
忍剣も韋駄天(いだてん)のようないきおいチャカシで駆け出しました。この一歩が、絶対に負けられない必死の戦いの始まりでした。

二

ただ見渡す限りの――白い月の裾野を、銀の奔馬(ほんば)に鞭(むち)を打ち、ひとつの鞍(くら)にまたがった少年の貴公子と覆面の美少女は、まるで地上を流れる星のようであり、まるでウサギが波を蹴っていくかのようにも見えました。
たちまち、空の月影が黒雲に隠されてしまうと、裾野は一面の真っ暗闇となり、ただざわざわと鳴るススキの風に、冷たい雨の気配さえ混じってきました。
「あぁ、タイミングが悪いわね……」
馬を止めて空を見上げた咲耶子(さやこ)の声は、とてもうらめしげでした。
「ああ、雲が切れ目なく空一面に広がってきた。咲耶どの、もう馬を急がせては危ない。私はここで降りるから、あなたは岩殿(いわどの)へお帰りなさい」
「いいえ、まだ富士川のあたりまでは距離があります」
「いや、そなたが帰ってから小角(こすみ)にとがめられるかと思うと、私は胸が痛くなってしまう。さあ、私をここで降ろしてください」
「伊那丸さま、こんな果てしない裾野のなかで、馬を捨ててどうなさるおつもりですか!」
言い争っているすきに、十間(約18メートル)とは離れていない窪地(くぼち)の下から、パッと目を射るような松明の明かりが飛び込んできました。
「いたぞッ!」
「逃がすな!」と、四方八方から声が上がります。
「あっ、大変!」
咲耶子はピシリと馬を叩きました。
馬はザザーッと道も選ばずに数十間、一気に駆け抜けましたが、それもつかの間でした。頼みの馬が窪地に落ちて足を折った勢いで、ふたりは激しく草むらの中へ投げ出されてしまいました。
「それっ、落ちたぞ! そこだッ!」
群がり寄ってきた松明の赤い炎、山刀(やまがたな)の光、槍(やり)の穂先。ふたりの姿は、たちまちその包囲網の中に明るく照り出されてしまいました。
「もう、これまで……!」
小太刀(こだち)を抜いた伊那丸は、荒武者たちのど真ん中へ、運を天に任せて斬り込みました。
咲耶子も、覆面姿なのを幸いに一刀を振るって伊那丸の身を守ろうとしましたが、次から次へとしのぎを削る槍や大刀(たち)に圧倒され、はなれ離れになって戦うことになりました。
「めんどくさい! 武田の童(わらべ)も、手引きしたやつも、片っ端から首にしてしまえ!」
大勢の群れの中からこう怒鳴りつけたのは、咲耶子と気づいてか気づかぬのか、山大名の根来小角(ねごろこすみ)でした。
そのとき、そのすさまじい剣の渦の中へ、前触れもなく、横合いから一言も発せずに、反りのない大刀を拝むようにして飛び込んできた人影がありました。
六部の木隠龍太郎でした。一|閃(ひらめ)けば必ず一人を斬り、一気が怒れば必ず一人を打ち破る。その手並みの凄まじさは、まさに超人的なものだった。
それを見て愕然とした根来小角(ねごろこすみ)は、自ら大刀(たち)を取って気合を入れ直した。
それと同時に、少し遅れて駆けつけた忍剣(にんけん)の鉄杖も、風を巻き起こしてうなり始めた。
空はいよいよ暗さを増していた。
空から降るのは、細かな血の雨である。
飛び散る剣の稲妻に巻き込まれてしまった可憐な咲耶子(さやこ)の身には、これから一体どんな運命が待ち受けているのだろうか――。
そして、武田伊那丸(たけだいなまる)の運命は、いったい誰の手に握られてしまうのだろうか?

朱柄の槍を持つ男

一

 雲の明るさを見上げれば、夜はたしかに明けている。
しかし、加賀見忍剣(かがみにんけん)のまわりだけは、真っ暗な闇に包まれていた。
彼は、とんでもない深い底の底へと落ちてしまい、まるで土竜(もグラ)のように必死にもがいていたのだ。
「伊那丸さまは、いったいどうなってしまったのだろう。
あの武士の群れにまた連れ戻されてしまったのか、それとも、あの六部(ろくぶ)の木隠(こがくれ)というやつにさらわれてしまったのか? ――どちらにしても一大事だ。
あぁ、こんなところでグズグズしている場合じゃない……!」
 忍剣は、どんな危ない場所に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。
ただただ、伊那丸の身を心配するあまり、焦るのだった。
足元の地形が見えにくかったため、乱闘の最中にうっかり足を踏み外してしまったのは、何とも悔やまれる彼の失敗だった。
しかし、落ちた場所というのが、裾野に大きく走る断層の裂け目だった。両側はまるで切り出したかのような切り立った岩に挟まれた、何丈(じょう)もある深い地底である。さすがの忍剣も、すっかり体力を使い果たしながら、上の明るい空をじっと睨みつけていた。
「ぬぅ……! 根気だ。
こんなことで弱音を吐いてたまるか!」
 彼は再び気合を入れて袖をまくり直した。
そして、鉄杖を背中にしっかりとくくりつけると、護身用の短剣を抜き放った。
それから、岩の壁に向かって、一段、また一段と、自分で足をかける場所を掘り始めたのである。
すると、何かやわらかなものが忍剣の頬をふわりと撫でては離れ、撫でては離れした。彼が「うるさいな」と思って手でパッと掴んでみたとき、それが赤い絹の細い帯であることに初めて気づいた。
「おや……?」
 と上を見上げると、宙のほうから藤のツルなどでしっかりと結び合わされた一本の布が、確かに上から自分の目指して垂れ下がっていた。
「ありがたい!」
 彼は力いっぱい引っ張ってみたが、切れそうにないので、その布を頼りに、するすると上へとよじ登っていった。
ポンと、地上へ飛び上がったときの嬉しさといったらなかった。
忍剣が飛び跳ねるようにしてあたりを見回すと、そこには、思いがけないことに、一人の美しい少女が微笑みを浮かべて立っていた。
少女の足元には、あの謎の黒い忍者装束の上下が脱ぎ捨てられて転がっていた。
「おや、あなたは……?」
 忍剣は、信じられないものを見るように目を丸くした。
その問いに答えて、少女ははっきりとした強い声で言った。
「わたくしは、この裾野を治める山大名・根来小角の娘で、咲耶子(さやこ)と申します」
「そのあなたが、どうしてわたしを助けてくださったのですか?」
「お坊様は、伊那丸さまをお守りしているお方でございましょう?」
「その通りだ。
若君のお身にいったい何が起きたのか、それだけが心配なのだ。

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