初級翻訳・神州天馬侠 第15話

吉川 英治

ああ龍虎たおれるものはいずれであろうか。

三

 船べりに頬杖ついて、龍太郎を待っていた伊那丸は、宵からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。
――松かぜの奏でや、舷をうつ波の鼓を、子守唄のように聞いて。
――すると。
内浦鼻のあたりから、かなり大きな黒船のかげが瑠璃の湖をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。
だんだんと近づいてきたその船を見ると徳川家の用船でもなく、また漁船のようでもない。
舳のぐあいや、帆柱のさまなどは、この近海に見なれない長崎型の怪船であった。
ふかしぎな船は、いつか弁天島のうらで船脚をとめた。
そして、親船をはなれた一艘の軽舸が、矢よりも早くあやつられて伊那丸の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
ポーンと鈎縄を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。
――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フト胸ぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、荒縄をまきしめていたのだった。
「あッ、龍太郎――ッ」
 かれは、おもわず絶叫した。
だがその口も、たちまち綿のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。
ただ身をもがいて、伏しまろんだ。
水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、胴の間や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、北岸へ役人の松明が見えだしたぞ」
「はやく軽舸をあげてしまえッ」
「帆綱に集れーッ、帆綱をまけ――」
 キリキリッ、キリキリッと帆車のきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた伊那丸のからだは、
「あッ」というまに鈎綱にひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
龍太郎はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、巽小文治の稀代な槍先にかかってあえなく討たれてしまったのか……?
 西北へまわった風を帆にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、外海へでてゆくではないか。

大鷲の鎖

一

 うわべは歌詠みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、武田伊那丸のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、血眼の旅をつづけている加賀見忍剣。
裾野の闇に乗じられて、まんまと、六部の龍太郎のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの無念さは思いやられる。
したが、不屈なかれ忍剣は、たとえ、胆をなめ、身を粉にくだくまでも、ふたたび伊那丸をさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
おりから、天下は大動乱、鄙も都も、その渦にまきこまれていた。
この年六月二日に、右大臣織田信長は、反逆者光秀のために、本能寺であえなき最期をとげた。
盟主をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。
なかにひとり、山崎の弔い合戦に、武名をあげたものは秀吉であったが、北国の柴田、その他、北条徳川なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の関をかため、虎狼の鏃をといで、人の心も、世のさまも、にわかに険しくなってきた。そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。
しかも、酬いられてきたものは、けっきょく失望――二月あまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。
せめて……アア夢にでもいいから、いどころを知りたい……」
 足をやすめるたびに嘆息した。
その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
 かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、甲斐の国へむかって、いっさんにとってかえした。
忍剣が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、ままでも、変りはてた恵林寺の焼け跡へあらわれた。

二

 忍剣は数珠をだして、しばらくそこに合掌していた。
すると、番小屋のなかから、とびだしてきた侍がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、国師さまはじめ、あえなくお亡くなりはてた、一山の霊をとむろうていたのでござります」
「ならぬ。
甲斐一帯も、いまでは徳川家のご領分だぞ。
それをあずかる者は、ご家臣の大須賀康隆さまじゃ。
みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。
……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。
この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、扇山の奥に、わたしの幼なじみがおります。
久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる尋ねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。
それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。
クロともうす大鷲、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。
あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の生捕りもの、大せつに餌をやって、ちかく浜松城へ献上いたすことになっているのだ、汝らの見せ物ではない。
帰れというに帰りおらぬか」
 ひとりが腕、ひとりが襟がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、忍剣の眉がピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
 ひとりが腰縄をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足がどんと彼の脾腹をけとばした。
アッと、うしろへたおれて、悶絶したのを見た、べつな侍は、
「おのれッ」と太刀の柄へ手をかけて、抜きかけた。
――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の鉄杖に、なにかはたまろう。
あいては、かッと血へどをはいてたおれた。
それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の奥へおくへとよじのぼってゆく。
――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、魔鳥の羽ばたきがつめたい雫をゆりおとして聞えた。

三

 らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた琥珀のようだ。
その底にすむ金色の瞳、かしらの逆羽、見るからに猛々しい真黒な大鷲が、足の鎖を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、扇山の石柱の上にたって、ものすごい絶叫をあげていた。
そのくろい翼を、左右にひろげるときは、一丈あまりの巨身となり、銀の爪をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな威がある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
 おそれげもなく、そばへかけよってきた忍剣の手になでられると、鷲は、かれの肩に嘴をすりつけて、あたかも、なつかしい旧友にでも会ったかのような表情をして、柔和であった。
「おなじ鳥類のなかでも、おまえは霊鷲である。
さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
 忍剣は、かねてしたためておいた一片の文字を、油紙にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
この鷲にもいろいろな運命があった。

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