初級翻訳・神州天馬侠 第18話

吉川 英治

今為朝が、五重塔の上に現れた老人の魔物を射落としに行ったぜ!」
 坂本の町の葭簀茶屋(よしずぢゃや)でも、そんなうわさがパッと一気に広がった。
 床几(しょうぎ)に腰かけてお茶をすすっていた木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)は、それを耳にすると、道連れの小文治(こぶんじ)を振り返りながら、すっと急に立ちあがった。
「もしかすると、その老人というのは俺の師匠かもしれない。
このあたりでお目にかかることができればこれ以上ない幸いだ。とにかく、急いで行ってみよう!」
「えっ?」
 小文治は不審そうな顔をしたが、龍太郎がすでにものすごい勢いで駆けだしてしまったので、あわててその後を追いかけた。たどり着いた現場は、うわさに違わぬ大変な人だかりだ。
 両足をきっちり踏ん張り、狙いをさだめた蔦之助は、いまや、「プツン」と心地よい音を立てて手もとを放した。
「あ――」と群衆は息をのみ、矢の飛んでいく先にぐっと目をこらした。
よく見ると、風を切って飛んでいった真っ白な羽の矢は、間違いなく五重塔のあやしい老人を射抜いたはずだったのに、そこからパッと飛び立ったのは、なんと一羽の白鷺(しらさぎ)だった。白鷺はヒラヒラと青空へ舞い上がり、そのまま日吉の森へと姿を隠してしまった。
「ななんだ……」
 多くの人たちは口をぽっかりと開けたままぼうぜんとし、さっきの老人が幻だったのか、いまの白鷺が幻だったのかと自分の目を疑いながら、目をパチパチさせるばかりだった。
 そこへ一足遅れて到着した龍太郎と小文治は、すでに人々が散っていくのを見てがっかりし、そのまま比叡山の山道をグングンと登っていった。
 ふたりはこれから、比叡山を越え、八瀬(やせ)から鞍馬(くらま)を目指して、山づたいに急ぐつもりらしい。
 言うまでもなく、それは果心居士(かしんこじ)の住まいを訪ねるためだった。
 噂に高い源平時代の昔から、天狗の棲家(すみか)と言われてきたほどの鞍馬の山道は、聞いていた以上にものすごく険しい。
 おまけに、ふたりがそこへ差し掛かった時には、ちょうどすっかり辺りは日も暮れてしまっていた。
 ふもとでもらった蛍の光ほどの小さな火縄の明かりをたよりに振りながら、大蛇(うわばみ)の歯のような険しい岩壁をつたい、足場がムカデの腹や鬼のすべる坂のようだと恐れられる嶮路(けんろ)をよじ登っていく。
 時は初秋とはいえ、山の寒さはまた格別で、そのうえ辺り一面が真っ白にぼんやりと、深い霧が山をすっぽりと包み込んでいたものだから、ついに火縄も湿って消えてしまった。
「小文治殿、足もとにお気をつけなされよ、いいか?」
「大丈夫、ご心配には及びません!」
 と言ってはみたものの、小文治も海であればどんな荒波にも恐れないが山道には慣れていないので、例の赤い柄の槍を杖がわりに使いながら、足をひきずりひきずり必死についていった。千段曲り(せんだんまがり)という坂道をやっとの思いで下りきると、白い霧がもくもくとわきあがっている谷底から、ごうごうとものすごい水音が聞こえてきました。
そこには渓流が流れていたのです。

「橋がかかっていないから、その槍を貸してくれ。
こうして、おたがいに槍の両端をしっかり握り合っていけば、流されることはないから大丈夫だ」
龍太郎は山歩きに慣れているので、先に軽々と岩から岩へと飛び移りました。

そのとき、小文治のすぐ後ろにある崖(がけ)から、ドドドドッとまっ黒な影が一斉に群がり降りてきました。
「おやっ?」と小文治が身構えて見てみると、それはなんと五十匹、六十匹ほどもの山猿の大群でした。
その中に、十歳くらいの少年がたった一人、鹿の背中にまたがって楽しそうに笑っています。

「おお、そこへやってきたのは竹童(たけどう)ではないか!」
岩の上から龍太郎が声をかけると、少年は鹿の背中からヒラリと飛び降りて、なれなれしそうに言いました。
「龍太郎さま、ただいまお戻りでございましたか!」
「うむ。ところで先生はいらっしゃおるかな?」
「このあいだから大切なお客さまが泊まっていらっしゃるので、このごろはずっとお屋敷(荘園)の方においでですよ」
「そうか。実は私の道連れも、足を痛めているようなんだ。お前の鹿を貸してくれないか?」
「ああ、この方ですか。お安い御用です!」

竹童は指笛をピィーッと鳴らして鹿をそこに残すと、岩燕(いわつばめ)のように軽やかに渓流を飛び越えていきました。猿の大群も、その口笛の音に従って、ワラワラと深い霧の中に姿を消してしまいました。

鹿の背に揺られながらしばらく進んでいくと、小文治はあたりに漂うふくよかな良い香りに包まれ、まるで仙人の世界(仙境)にでもやってきたような心地がしました。
「やっと僧正谷(そうじょうがにち)に到着しましたぞ」
龍太郎が指さしたほうを見ると、そこは山芝の広がる平地でした。甘い香りを漂わせる果樹園では何かの実がたわわに熟れ、大きなバナナの葉(芭蕉)の陰には、竹を柱にした風流な一軒家が建っていて、ほのかな灯りがともっています。

門のすき間からのぞいてみると、家の中では、白髪で子供のように肌のツルツルしたおじいさんが、果物を肴(さかな)にお酒を酌み交わしていました。その向かい側には、髪を頭の上でゆったりと束ねた立派な武士が座っていて、何やら楽しそうに話し合って笑い合っています。

「龍太郎、ただいま戻りました」
かれが両手を床についたその背後へ、小文治も静かにひかえました。
「なんじゃ、のこのこと生きて戻りおったわ!」
おじいさん――それは他の誰でもない、あの果心居士(かしんこじ)でした。
龍太郎の顔を見るやいなや、居士はそばにあった杖をグッと掴んで立ち上がるが早いか、
「バカ者め!」
とピシリと龍太郎の肩を打ったのです。

五

果心居士は、誰から何も聞いていないというのに、すべてのことをすでに知っていました。
八幡船(やわたぶね)で伊那丸(いなまる)を奪われてしまったことも、巽小文治(たつみこぶんじ)のこれまでの身の上も――。
そして、きょうの昼、日吉の五重塔のてっぺんにいたのも自分自身だったと語りました。

このおじいさんは、仙人なのだろうか? それとも幻術使い? あるいは南蛮の魔法を使う者なのだろうか?
初めて会った小文治は、この奇怪な謎がどうしても解けず、ずっと頭を悩ませていました。
しかし、こうしてひざを突き合わせてじっくり話を聞いているうちに、だんだんと分かってきたのです。
この人は仙人でもなければ、あやしい幻術使いでさえない。
ただただ、ものすごい凄まじい「修養(自分をきたえること)」の力なのだと。

どれもこれも、日々のたゆまぬ厳しい鍛錬によって身につけた、人間の技(人間技)なのだと納得がいきました。
空を飛ぶような軽やかな身のこなし(浮体の法)、風のように素早く走る呼吸法(飛足の呼吸)、はるか遠くのことを察知する術(遠知の術)、姿をくらます木遁(もくとん)やその他の隠れ身の術――これらはすべて、かれが何十年もの間、深い山奥で暮らしてきたたまものであり、誰もがものすごい努力と修行(劫をつむ)を積めば、決して不可能な魔法などではないのです。

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