初級翻訳・神州天馬侠 第31話

吉川 英治

おお、殿さま!
ただいまの言葉をお聞きになられましたか」
ちょうどそこへ、遅れて到着した梅雪の姿を見て、民部がそう言いながら馬の上を見上げると、梅雪はニンマリと笑ってうなずきました。
「聞いたぞ。
あいつの言うことが本当ならば、すぐに湖から宝を引き上げる準備をさせろ!」
「はっ、かしこまりました!」
民部はやる気満々の様子を見せ、部下たちを八方へと走らせました。
まもなく、このあたりの地形に詳しい地元の村人たちが、何十人もここに集められてきました。
そして、集められた村人や兵士たちはたくさんの小船に分かれて乗り込み、湖の底へフックのついた綱を下ろしながら、あちこちと漕ぎ回りました。

二

陸の方では、穴山梅雪入道が「白旗の宮」の前に椅子(床几)を置き、四天王たちを左右に従えて、ゆったりと様子を眺めていました。と、彼の欲深い顔がニヤニヤと笑い崩れてきました。
――湖水の真ん中では、いましも釣り針にかかった獲物があったようです。
多くの小船は、たちまちそこに集まって綱を下ろし、「エイヤ、エイヤ」と声を合わせながら、だんだんと浅瀬の方へ引き寄せていく様子です。
伊那丸と忍剣が知恵を絞って世間から隠しておいた宝物も、こうして、苦労もなく発見されてしまいました。
まもなく梅雪入道の床几(いす)の前へと運ばれてきたものは、真っ青に水苔(みずごけ)がさび付いた石の箱でした。
「殿さま、ご苦労されたかいがあって、いよいよご開運の秘宝もめでたく手に入りました。
おめでたいことでございます」
村人たちにほうびを与えて追い返したあと、民部はそばから祝いの言葉を述べました。
「そのほうの手柄は決して忘れはせぬぞ。
この宝物に伊那丸の首を添えて差し出せば、いかにけちな家康であっても、一万石や二万石の城地は、いやでも加増するだろう。
その暁には、そのほうのことも十分にりっぱに取り立ててやろう」
「もったいないお言葉でございます。
しかし、お望みの物が手に入ったからには、一刻も猶予は無用でございます。この場で伊那丸を首にして、あの鎖駕籠(くさりがご)のほうには宝物を入れ替えて、一刻も早く家康公へお届けするのが一番の上策と心得ます」
「おお、今日のような吉日はまたとない。
いかにもこの場でやつを成敗しよう。その介錯(かいしゃく)もそなたに命じる! しくじるでないぞ!」
「はっ、心して勤めます」
梅雪の目くばせに、カッと気合を入れて立ち上がった民部は、素早く着物の下緒(さがりお)を取ってたすき掛けにし、刀の柄(つか)に汗止めをしめらせました。
その間に、二、三人の家来たちは、小船の板を四、五枚はずしてきて、武田伊那丸のための死の座敷をととのえました。
「これこれ、さきほどの小娘もことのついでだ。
そこへ並べて、民蔵の腕試しの道具にしてやれ。
旅のちょっとした娯楽として見物するのもよかろうではないか」
神社の根元にくくりつけられていた咲耶子は、罪人のように追い立てられて、板が並べられたすぐ隣へと座らされました。
彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったのか、ほつれた髪も震わせることなく、白百合の花そのものの顔を静かにうつむかせています。
一方では、鎧(よろい)の音を立てながらザクザクと迫っていった四天王の面々が、例の鎖駕籠のまわりに集まり、乗り物の上からかぶせてある鉄の網をザラザラとはずしはじめました。
長い道中のあいだ日の目を見ることもなく、乗り物の中で揺られてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、悪魔のような断ち刀を受けなければならぬこととなりました。
四天王の天野刑部(あまのぎょうぶ)は、ガチャリ、ガチャリと荒々しく錠前の音をさせ、駕籠の引き手をグイと押し開けて、
「伊那丸、ここへ出てまいれ!」と、涙もなく、ただの罪人を呼び出すかのようにどなりつけました。
しかし――駕籠の中は、ひっそりと静まり返って音もしません。
「おい、伊那丸、さっさとここへ這い出てこないのか!」
猪子伴作(いのこばんさく)は、そう怒鳴りながら、駕籠の扉の入り口を土足で激しく蹴飛ばしました。
すると、足もとが不意に軽くすくわれたため、伴作は「あっ」と言って後ろへよろめきました。
しまった!
殺気がたちまちその場に張りつめました。
天野、佐分利(さぶり)、足助(あすけ)の三人は、陣刀の柄をぎゅっと握りしめながら、駕籠の入り口へと身構えました。

三

「おお、夜が明けたようだ……」
つぶやく声といっしょに、伊那丸の姿が静かにそこへ現れました。
もっとジタバタするかと思いきや、あまりにも落ち着き払った様子に、四天王の者たちはやや拍子抜けしたようです。
「歩けっ!」
左右からせきたてて、小船の板をしいた死の座敷へ伊那丸を引っ立てました。
そして、床几に座った梅雪に目礼をして引き下がります。
「あっ、伊那丸さま――」
「おっ! そなたは……」
席を並べて座った伊那丸と咲耶子は、おたがいにハッとしましたが、彼女は瞬時に顔をそむけ、何食わぬ顔を装いました。
そして伊那丸も、さまざまな疑念に胸を包まれながらも目をそらし、こんどはしっかりと、入道の顔をにらみつけました。
――梅雪も負けじと、
「こりゃ伊那丸、さだぞめ今まで窮屈であったろうが、いますぐ楽にしてやる。
この世の見おさめに、泣くも笑うも、存分に狂ってみるがいい」
と、にくたらしい毒づきを吐きました。
「さて、大人げない武者どもめ――」
伊那丸は涼やかな声であざ笑いながら、
「わし一人の命をとるのに、なんと大げさなことであろう。
冥土にいる祖父・信玄公やその他の武将たちによい土産話ができる。甲州の侍の中にも、こんな卑怯者がいたと笑ってやろう!」
「えい、口の減らない小賢しいやつめ! 民蔵、早々にこの童の息の根をとめてしまえ!」
梅雪は号令を下しました。
その声に応じて、
「はっ!」と武者震いをして立ち上がった民部は、伊那丸の後ろへ回り込んでピタリと位置を定め、見るからに冷たい業刀(わざとう)をスボラリと腰から引き抜きました。「お覚悟なさい! 太刀取りの民蔵が君命によってみ首はもうしうけた」
「…………」
 覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。
かれは一糸とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
正面の梅雪入道をはじめ、四天王以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
湖水の波も心あるか、冷たい風を吹きおこして、松の梢にかなしむかと思われ、陽も雲のうちにかくされて、天地は一瞬、ひそとした。
そのとき、民部の口からかすかな声。
「八幡」
 水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白い頸をねらいすました。
――と、そのするどい眼気が、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
 武田伊那丸の首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった小幡民部、
「悪逆無道の穴山入道、天罰の明刀をくらえ!」
 耳をつんざく声だった。
ふいをくった梅雪は、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、眉間をかすめた剣光に眼もくらんで、
「わーッ」額の血しおを両手でおさえたまま、床几のうしろへもんどり打ってぶッたおれた。

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