初級翻訳・神州天馬侠 第32話

吉川 英治

「曲者」愕然と、おどりあがった四天王たち。
同時に、その余の群猛も渦をまいて、
「うぬッ、気が狂ったかッ」
「裏切者ッ――退くな」
 とばかり、一どに総立ちになるやいなや、民部の上へ、どッとなだれを打ってきた剣の怒濤。

湖南の三騎士

一

 梅雪入道は、みだれ立つ郎党たちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は武田の残党だッ。
伊那丸を逃がすなッ」
 と絶叫した。
民部はその姿をおって、
「おのれッ」
 無二無三に斬りつけようとしたが、佐分利五郎次にささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。
そのあいだに、天野、猪子、足助などが、鉾先をそろえてきたため、みすみす長蛇を逸しながら、それと戦わねばならなかった。
いっぽう、民部にかかりあつまった雑兵は、伊那丸のほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、咲耶子が、腰の縄を切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。
早く早く」
 と、よりたかる武者二、三人を斬りふせながらせきたてた。
とたんに背なかから、一人の武者がかぶりついた。
伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へ槍をつけていた武者を斬ってすてた。
すべては一瞬の間だった。
伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。
穴山がたの郎党も、たがいに目から火をだしての狼狽だった。
そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしも命は惜しみ、八ぽうへワッと飛びのく。
――
 ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。
二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と懐剣を二方にきっとかまえている。
目にあまるほどの敵も、うかと近よる者もない。
ただわアわアと武者声をあげていた。
すると、あなたから加勢にきた四天王の足助主水正。
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
 大身の槍に行き足つけて、伊那丸の真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
伊那丸の身は、その槍先に田楽刺しと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
 片足を宙にあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の太刀に千段を切りおとされて、無念、手にのこったのは穂をうしなった半分の柄ばかり。
「やッ」
 捨鉢に柄を投げつけた。
そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの雑兵をきりちらして、湖畔のほうへ疾風のようにかけだした。

二

 そこには、白旗の宮のまえから、追いつ追われつしてきた小幡民部が、穴山の旗本雑兵を八面にうけて、今や必死に斬りむすんでいる。
しかし、小幡民部は、こうした斬合はごく不得手であった。
太刀をもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
けれど、軍配をもって陣頭に立てば、孫呉のおもかげをみるごとくであり、帷幕に計略をめぐらせば、孔明も三舎を避ける小幡民部が、太刀打ちが下手だからといっても、けっしてなんの恥ではない。
かれの偉さがひくくなるものではない。
民部の本領はどこまでも、奇策無双な軍学家というところにあるのだから。
だが、それほど智恵のある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。
なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと伊那丸を救わないのか。
民部ははじめ、こう考えた。穴山梅雪の領内、甲州北郡の土地へはいってからでは、伊那丸を助けることは容易であるまい。
これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。
――でかれは、出発にさきだって鞍馬の果心居士、小太郎山の龍太郎、小文治などの同志へ通牒をとばしておいた。
ところが、裾野へかかってきた第一日に、咲耶子という意外なものがあらわれた。
かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは伊那丸君を救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の警固には、四天王をはじめ、手ごわい旗本や郎党が百人近くもついているので、あくまで入道をゆだんさせるため、奇計をもって咲耶子を生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
ところが、民部の心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。
――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、驚天動地の火ぶたを切ったのである。
致命傷にはなるまいが、怨敵梅雪へは、たしかに一太刀手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、伊那丸君をすくいだそうと民部は心にあせった。
しかし、まえにも、いったとおり、剣を持っては万夫不当のかれではないから、無念や、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四天王の天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
天野刑部は月山流の達者とて、刃渡り一尺四寸の鉈薙刀をふるってりゅうりゅうとせまり、佐分利五郎次は陣刀せんせんと斬りつけてくる。
その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息を吐きながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうは湖、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったく袋のねずみだ、背水の陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。
猪子伴作は伊那丸のほうへいってくれ」
「おお承知した」
 天野刑部の声にこたえた伴作は、笹穂の槍をヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。
ところへ、いっさんにかけだしてきたのは伊那丸と咲耶子、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八合槍と太刀の秘術をくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから足助主水正、その他の郎党が嵐のような勢いで殺到した。
あなたでは民部の苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、腹背の敵にはさみ討ちとされている。
二ヵ所の狂瀾はすさまじい旋風のごとく、たばしる血汐、丁々ときらめく刃、目も開けられない修羅の血戦。
三つの命は刻々とせまった。
そのころから、秀麗な富士の山肌に、一抹の墨がなすられてきた、――と見るまに、黒雲の帯はむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、澄みわたっていた空いちめんにさわがしい色を呈してきた。
雲団々、陽はたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち下界にもうつって、修羅のさけびをあげている湖畔の渦は、しんに凄愴、極致の壮絶、なんといいあらわすべきことばもない。
おりしもあれ!
 はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
画面点景の寸馬豆人そのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで湖畔をはしってくる。
それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、陽がかげるとともに、暗澹たる蘆のそよぎに見えなくなる。
そも何者?
 おお、いよいよ奔馬は近づいてきた。
しかもそれは一騎ではない。
あとからつづくもう一騎がある。
いや、さらにまた一騎。

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