初級翻訳・神州天馬侠 第36話

吉川 英治

これからひとつ、裾野まで飛んでいって、勇ましいところを空から見物してやろうっと!」
日ごろから果心居士によくお叱りばかり受けているというのに、竹童はもう鞍馬山へ帰ることもすっかり忘れ、こんな大それた野望を思いついてしまったのです。
思い立ったら矢も楯もたまらないのが竹童という子どもです。すぐその場で、富士山の姿を目あてに鷲を飛ばせました。
どんな名馬に乗って地を駆けるよりも、こうして大空を自由に飛ぶ快感は、自分が自分ではなくなったようで、生きながらにして神様や仙人にでもなったかのような素晴らしい楽しさです。
――だが、ここまでやって来たときとは違い、鷲はそこから先、一向に竹童の思い通りになってくれません。
富士の裾野とはまったく方角違いの、北へ北へと向かって、勝手に雲を切り裂きながら飛んでいくのです。
「おい、クロ!
そんなほうへ行くわけないだろ、こらっ、こらっ、こらっ!」
竹童はあわてて、何度も何度も方向を変えさせようとしましたが、まったく効果がありません。地上へ戻ろうとしても、いつもならスラスラと降りてくれるのに、それすらしてくれないのです。
一体これはどうしたことでしょう。
「ちぇっ、畜生、畜生、畜生め!」
彼はクロの背中でかんしゃくを起こし、もどかしさにイライラし、最後にはベソをかき始めたのでした。そもそもきょうは、竹童にとってどんなについていない悪日だったのでしょう。もうベソをかいてばかりの、とんでもない一日でした。
しかし、それに気づいたところで、もう後の祭りです。いくら泣こうがわめこうが、自分の命を鷲の背中にあずけて高い雲の上を飛んでいる以上、クロの翼が疲れて、自然に大地へ降りてくれるのを待つよりほかありません。

それだけでも十分大変だったのに、泣き面に蜂、続いておそるべき第二の大ピンチがやってきました。
すでに今朝から怪しいようすを見せていた空は、このときになってますます荒れ模様になり、ものすごい雷鳴とともに黒い雲がどんどん分厚くなり、息が詰まるような冷たい雨風が、激しくビュンビュンと吹きつけてきました。
そして、鷲が雲より低く飛ぶときは、まるで滝のような大雨が竹童の頭の上からザブザブと降りかかり、高い雲の中に入るときは、あたり一面が真っ白な夢の世界のようにぼやけて、髪の毛も爪の先も凍りついて折れてしまいそうなほどの寒さを感じるのでした。
それでも、クロはこの激しい修行のような苦しみにも負けるようすはなく、相変わらず稲妻よりも早いスピードで飛んでいきます。
すると、果てしない雲の海の中から、黒い山脈の背中がモッコリと姿を現しました。

竹童はどうにかしてここから地上へ降りようと、必死になってずるい作戦を思いつきました。いきなり手を伸ばして、鷲の両目をふさいでしまったのです。
人間だって目をふさがれたら歩けません。こうしてやれば絶対に止まるはずだという、竹童の命がけのナイスアイデア――はたして鷲もびっくりしたようで、糸の切れてしまった凧(たこ)のように、クルクルクルと空中で回り出しました。
自分の作戦がうまくいったので、竹童は急に元気を出して、
「やったぞ、もうこっちのものだ! しめた、しめた!」
と大喜びしましたが、あぁ、それもほんの一瞬の出来事でした。

たちまち鳴り響いた雷が、彼の耳を引き裂きそうになったその瞬間、地上ではちょっと想像もできないような強烈な稲妻の光が、ピカッ、ピカッと、まつげの先で交差したかと思った次の瞬間でした。
「あっ!」
と叫んだ竹童の体は、おそるべき雷のすごいパワーによって、鷲の背中からひきはがされてしまいました。そして、真っさかさまに、どこへ落ちていくのかもわからない下の世界へ、一直線に落っこいていくそのとき――!
追いかけた鷲が、いきなりパクッと竹童の帯をくわえ、まるで軽い小魚でもさらっていくかのように、そのまま霧に包まれた深い山の奥へと、斜め下に猛スピードで駆け下りていったのです。

三

「あいたたた、痛いよお……!」
足を引きずりながら、草むらからゴロゴロと転がり出てきたのは竹童でした。
地上二、三十尺(約六〜九メートル)のところまで落ちてきたとき、ふいに鷲の口から放されたのです。
これが普通の人間だったら、気絶して意識を失うどころか、地面に着く前に命を落としていたに違いありません。しかしそこは、山のエネルギーを受けて育った不思議な子ども。三歳の頃から果心居士に育てられ、初歩的な幻術や体を軽くする秘法くらいは少し心得ている竹童だからこそ、全身の骨をバラバラに折らずにすんだのです。
「うう、痛い!
クロのやつのめ、あんなにかいがってやっているのに、よくもこの恩人をこんなひどい目にあわせやがったな! あぁ痛い、痛い、痛い! 畜生、畜生、覚えてろよ、どうしてやるか見てろ!」
腰の骨をさすりながら、ふと後ろを振り返ってみてびっくり。なんと、にくたらしいことに、すぐ自分のそばで知らん顔をして翼を休めているではありませんか。
「ちぇっ、癪(しゃく)にさわる!」
竹童はいきなり帯から棒切れをひっこ抜き、クロめがけてピュッと打ちかかりました。
すると鷲も、猛禽類(もうきんるい)としての本性をむき出しにして、「ギャッ!」と鳴きながら、竹童の頭めがけて鋭い爪をむき出して飛びかかってきました。
「この野郎、生意気にもおいらにむかってくる気だな!」
カッとなって怒り心頭に発した竹童は、ブーンと棒を横ナグリに振り回して追い払おうとしました。するとどうでしょう、鷲の片足がグンと伸びて、竹童の胸をグッとつかみ、
「こら竹童、なにが生意気だというのか」
と、ものすごい目で睨みつけました。
「あっ、お師匠さま……!?」
もともと大きな竹童の目が、さらに飛び出さんばかりに見開かれ、あぜんとしてしまいました。
なんと、鷲だと思って棒で叩いていたのは、今ごろ鞍馬山にいるはずのお師匠さま、果心居士ではありませんか!

びっくりしたのなんのって、ありゃしません。
空から落っこちたとき以上にぎょっとした竹童は、体を石のようにガチガチにこわばらせ、口もきけず、逃げることもできず、しばらくの間そこでもじもじとしていましたが、やがてガランと棒切れを放り出し、地面にペタリと額をすりつけました。
「お師匠さま……!
わたしがぜんぶ悪うございました。
どうぞ、おゆるしくださいまし!」
「びっくりしたか? どうじゃ、悪いことをするとこういう痛い目にあうものなのじゃよ」
居士はニヤリと笑って、足もとの岩に腰を下ろしました。
「まったく、これほど肝を冷やしたことはございません。
これからは絶対にお師匠さまに黙って遠くへは行きませんから、どうかおゆるしください!」
「よしよし、お仕置きはさんざん済ませたのだから、もうこれ以上くどくどとは言うまい」
「えっ? じゃあ、空を飛んでいるときに、あんな怖い目にあわせたのもお師匠さまでしたの?
ねえ、お師匠さま。
どうして人間が鷲に変身して空を飛べるんですか?」
「まったく、ゆるしてやるとすぐにこれだ。甘えておるな。

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