自分たちがいない間に、あるいは軍律を破って、夜半の眠りをむさぼっていたのではないかとさえ疑いました。
「なぜ、かがり火を焚いておらぬ。この暗さで、いざという時にどうするつもりだ。不埒者め、早く灯をつけい!」
「はい、ただいま、すぐに明るくいたします」
と答える者がありましたが、少し声色が変です。調子がおかしいのです。
小文治は、部下の中にこんなしわがれた声の者はいないはずだと思い、キッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
と、声を荒らげて怒鳴りつけました。
にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチと闇の中で火打石を磨り続けています。
「名を名乗らんと突き殺すぞッ! 敵か、味方か!」
ピラリッ――朱柄の槍の穂先が動き、闇の中に狙いを定めました。その槍先から、ポーッとうす明かりがともりました。
「わしは敵でも味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に床下から忍び込んできて、他人の家へ何をしに来た!」
「やや、ここは蚕婆(かいこばば)の家ではなかったのか――」
忍剣(にんけん)も小文治(こぶんじ)も、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立っていたひとりの人物を、一体何者かと見つめ直しました。
今ともした行燈(あんどん)を前に出し、静かに席についたその男は、鋭い両目に片方の鼻がそげた顔をしていました。熊の毛皮の服を着て、刻み模様の入った鞘の小太刀を腰に差した、どこか凄みのある姿でこう言いました。
「あははははは、床下から場所を間違えて現れたのは、さては伊那丸(いなまる)さまの家来のお方でござるな。何にせよ、深夜の珍客殿。お話もございますゆえ、まずそこへお座りください」
その声、その顔立ち、それは間違いなく、鏃(やじり)鍛冶の「鼻かけ卜斎(ぼくさい)」その人でした。
二
意外な事態に驚いた忍剣と小文治は、次に部屋の中を見回しました。
ここは卜斎の書斎のようで、兵法書や武器、様々な鏃の設計図などが雑然と散らばっており、中でも一挺の種子島(鉄砲)が、いま使ったばかりのように火縄を添えて、彼のそばに置いてありました。
「いかにもご推察の通り、われわれはいま雨ヶ岳(あまがたけ)を本陣としている、武田伊那丸さまの旗本でござる。して、そちらは何人(なにびと)? また、ここはいったいどこでござるか?」
少しして、忍剣がこう問い詰めました。
「ここは、やはり裾野の村。おふたりが間道へ入られた蚕婆の家から、そうですね、ざっと五、六町は離れた鏃鍛冶の小屋でござる。手前は、この主(あるじ)の卜斎と申す者」
「ではそちも、鏃鍛冶とは世をあざむく仮の姿で、真の正体は蚕婆と同じように、人穴城(ひとあなじょう)の見張り番をしているのであろう!」
小文治がグッと核心を突くと、卜斎は冷ややかに笑い飛ばしました。
「とんでもない、決してそのような者ではございません」
「黙れ! 呂宋兵衛(ろそんひょうえ)の隠密でない者が、なぜ床下から間道へ通じる仕掛けなど作っているのだ」
「なるほど、それはもっともなお疑いですな。いかにもこの卜斎、鏃鍛冶とはほんの一時の表稼業。真の正体は、お察しの通り隠密に違いありません」
「さては、間者(かんじゃ)め!」
小文治と忍剣は、腰の大刀をグイと握りしめ、今にも飛びかからんばかりの気勢を見せました。
卜斎は片手を斜めに差し出し、キッと体を構え直して言いました。
「ですが、お騒ぎなされますな。隠密は隠密でも、呂宋兵衛のような曲者の手先となって働くような卜斎ではございません――」
左右のふたりへ鋭い眼差しを注ぎながら、彼は続けました。
「――まこと、この卜斎こそは、北国一の雄、柴田権六勝家(しばたごんろくかついえ)が間者。本名、上部八風斎(うわべはっぷうさい)という者。人穴の築城をさぐろうがため、ここに鏃師となって住みつき、家の床下から八方へ隠し道を作り、この二年のあいだ苦心していたのでござる」
「おう……」と、うめくようにふたりは顔を見合わせました。
「噂に聞く鬼柴田の懐刀(ふところガタナ)、上部八風斎とは貴殿であったか。して、その御人が何の用があって、われわれを止めたのだ」
「それがしの主君、勝家より密命がありましてな。ご不運なる武田家の御曹司へ、ひとつの贈り物をいたしたく」
「はて、柴田家より伊那丸君へ、一体何の贈り物を?」
「すなわち、この品でござる――」
八風斎が示したのは、彼が学力のすべてを注ぎ込み、くまなく調べ上げて写し取った「人穴の攻城図」でした。獣皮に包まれ、大切に密封されています。
「――かねてから主君・勝家は、若くして孤立無援に立たれた伊那丸さまへ、ひそかにご同情いたしておりました。折からこのたびのご苦戦、ままなるなら北国の勇猛な軍馬を援軍に送りたいのは山々ですが、周囲の国々の手前もあります。せめて武家の情け、弓取り同士のよしみとして、この攻城図を本陣へ差し上げよとの仰せでして」
「なんと……では、貴殿が苦心に苦心を重ねて写したこの秘図を、惜しげもなく伊那丸さまへお譲りなさるというのか」
「いかにも。これさえあれば、人穴城の要害など掌を指すように、大手や搦め手(からめて)の攻め口、城門、櫓(やぐら)にいたるまで、我が家のようにすべて分かりまする。この一枚の図面は、千人の援兵にも勝るもの。一刻も早く本陣へ届けたいこのほうの志、なにとぞ伊那丸さまへよしなにお取り次ぎを」
「ああ、世の中もまだ捨てたものではない」
忍剣も小文治も、胸を打たれずにはいられませんでした。
越前北ノ庄の鬼柴田といえば、弱肉強食の乱世の中でも特に恐れられている梟雄(きょうゆう)です。それなのに、これほど美しい情けの心を持っていたとは、今日まで夢にも思いませんでした。
――なんと気高く、温かい弓取りのよしみでしょうか。当然、これは断る理由などないことだと二人は思いました。
きっと伊那丸さまをはじめ、仲間の皆が喜んでくれるはずだと信じ、すぐに八風斎の願いを受け入れ、雨ヶ岳(あまがたけ)の本陣へ案内することを快諾しました。
八風斎も大喜びで、身なりを立派に整え、獣の皮に包んだ図面を懐に入れると、二人のあとについて屋敷を出ました。
その頃、蚕婆(かいこばば)の家で待機していた部下たちは、床下の穴からもうもうと煙が吹き出してきたのを見て、「大変だ、忍剣(にんけん)と小文治(こぶんじ)の身に何かあったに違いない」と、ひどく騒ぎ立てていました。
そこへ予想外の方向から二人が無事に帰ってきたので、一同はあっけにとられてしまいました。
やがて、勢ぞろいをして人無村(ひとなしむら)を出ていく一列の軍馬を見れば、先頭には馬上の加賀見忍剣(かがみにんけん)、同じく騎馬姿の上部八風斎(うわべはっぷうさい)、巽小文治(たつみこぶんじ)、そしてそれに従う二十余人の兵が並んでいます。
この一団が整然と雨ヶ岳の本陣へ向かう間、富士山は銀の冠をかぶり、うす紫色の装いで暁の空に君臨し、流れる霧の合間から、裾野の朝がところどころ明け始めていきます。
人無村の柿の木には、今朝もカラスが群れていました。
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