初級翻訳・かんしやく玉 第2話

かんしやく玉

そしてくすっと笑う。
夫 そんなふうにするから、あいつが調子に乗って、用もないのにしょっちゅうやって来るんだろ。
彼女 だって、そうでもしなかったら、今晩はトマトだけになっちゃうところだったんだから。
夫 こっちは利用してやったつもりでいても、そのうちこっちが利用されちまうぞ。
ビフテキのお返しに、いったい何を要求されるかわかったもんじゃないからな。
彼女 そこまで図々しい人じゃないわよ。
夫 それがいけないんだよ。
君にはどこか、危なっかしいところがあるんだ。
どのあたりでブレーキを踏んだらいいのか、君の基準がさっぱり僕にはわからないよ。
彼女 でも、はじめに私が買い物に出るから留守番をしていてほしいって言ったら、その間、ベッドを借りてもいいかって聞いてきたのよ。
夫 それで……?
彼女 そんなの嫌だから、ピシャリと断ってやったわ。
夫 なんて言って?
彼女 「バカを言うのもいい加減になさい」って……。
夫 (いまいましそうに舌打ちをする)

彼女は、その様子を見てすぐに缶からかんしゃく玉を取り出し、夫に手渡す。
夫はそれを受け取り、床に叩きつける。
パーン!と大きな音。
夫 君はまさか、あいつに好意なんて持ってないだろうね。
彼女 好意って……? あなたの友達として見てるだけよ。
夫 それにしてもさあ。
彼女 どっちかって言ったら、虫唾が走るくらいよ。
夫 どういうところがだよ……。
彼女 ああいう話し方をするところとか、私を見る変な目つきとか……。
夫 どんな目つきだよ……?
彼女 言葉じゃうまく言えないような、気味の悪い目つきよ。
夫 よし。
(険しい顔つきになり、彼女がまたかんしゃく玉を渡そうとするのを手で押し返す)それじゃあ、僕のところにやって来る連中で、誰が一番好きなんだ? 好きっていうと言い方が変だけど、誰が一番感じがいいんだよ?
彼女 感じのいい人なんて一人もいないわよ。
夫 小森はどうなんだ?
彼女 あんなの嫌い。
夫 なぜさ?
彼女 くだらないことで熱血漢ぶる男なんて、大嫌いよ。
夫 それなら、阿部は?
彼女 あれも全然ダメ。
夫 どうしてだよ?
彼女 誰かが言ったことを、すぐそばからそのままオウム返しにするだけじゃない。
夫 はははは、愉快愉快……ほら、一つ貸してみろ。
彼女 あたしがやってあげる。
(かんしゃく玉を床に叩きつける。
パーンと爆音が響く。)

ドアをノックする音がする。
彼女 お入りなさい。
小森と阿部が顔を見合わせながら入ってくる。
小森 もう帰ってたのか。
阿部ビ まだ戻ってないかと思ったよ。
夫 何か用かい?
小森 君の仕事のことでさ、ちょっと風変わりな口利きを見つけてきたんだ。
阿部 本当に、びっくりするくらい風変わりな話なんだよ。
夫 まあ、そこに座りなよ。
彼女 もう、ご飯はお済みですか?
小森 ええ、すませてきました。
阿部 今ちょうど、そこで食べてきたところです。
夫 一体どんな話だい?
小森 僕もいろいろな方面にあたってみたんだがねえ。
なにしろ君の性格もよく知っているし、どこでもいいというわけにはいかないからさ。
実はこいつとも相談して、ある大金持ちの息子をおだて上げてみたんだ。
阿部 おだてたと言うとおかしいけど、まあ、うまく乗せみたのさ。小森 つまりね、ここで二千円くらいの資金を出させて、君と奥さんに喫茶店かバーのようなお店をやらせようって話なんだ。
それも、すごくおしゃれで現代風なやつさ。
要するに、奥さんの雰囲気にぴったりの店にするんだよ。
阿部 そうそう、奥さんの雰囲気だねえ。
明るくて、どこかはかない感じのするさ。
小森 そこで君も、ちょっと明るい顔をしてさ、カクテルの作り方でも覚えてみるんだな。
阿部 そんなの、わけないさ。
君にその気さえあればね……。
小森 利益はもちろん、店の運営費や君たちの生活費にあてるつもりなんだけど、最初に奥さんの衣装くらい、特別に新しく作らせてもいいんだぞ。
阿部 そうだな、衣装って大事だからねえ。
やっぱり洋服がいいよ、絶対……。
小森 どうだい、これなら文句ないだろ。
ぜひ思い切ってやってくれよ、僕たちも全力で応援するからさ。
阿部 その件なら僕たちにお任せだよ。
奥さんはどうですか?
こういうお仕事に興味はありますかね……。
小森 ほかにたくさんの店員を置くよりは、少し忙しくなるかもしれないけれど、奥さん一人でアットホームなおもてなしをしてもらったほうが、絶対に人気が出ると思うんだ。
阿部 そのほうが何より、落ち着いていて物静かという、この店だけの特別な魅力が出せるよね。
ドアが開く。
多田が、牛肉の包みとトマトの袋を持って帰ってくる。
彼女 どうもありがとう。
それじゃあ、そのお話はあとで聞かせてもらうわね。
(そう言って炊事場へ入っていく)

多田 いまの話は何だい?
阿部 ちょっとした秘密の作戦会議さ。
小森 秘密っていうほどでもないけど、いま公にしたくないだけなのさ。
そのうち君にも応援は頼むよ。
多田 こいつの仕事のことかい?
小森 うん、まあ、そんなところだ。
頼むから、今日はもう帰ってくれよ。
君がいると、どうも話しにくいんだ。
多田 それなら、僕の方の話を先にしようか。
実はその件でやって来たんだけど、君たちがいるなら、君たちの意見も聞いてみたいな。
こういう話があるんだけど、どうだろう。
僕が昔お世話になったことのある年配の教授なんだけどね。
いまは引退して研究や執筆に没頭しているんだが、助手のほかに、もう一人、ちょっとした雑用をしてくれる若い人を探しているらしいんだ。
条件は、専門的な学問の知識はいらなくて、明るくて機転が利いて、できるだけ生活の苦労を知っている人っていう話なんだ。
午前九時から午後四時までで、お昼ご飯は向こう持ち、月給は三十円だから、まあ普通のオフィス勤めと同じくらいだね。
小森 それは男かい……?
多田 決まってるだろ、女性さ。
彼 なんだ、女の話かよ……。
多田 だからさ、君のほうの仕事はあとから見つけるとして、この仕事、奥さんにどうかなって思ってさ。
彼 誰がうちの妻のことを頼んだっていうんだ?
多田 頼まれなくたって、それくらいの心配くらいするさ。
彼 大きなお世話だよ。
彼女がフライパンを持ったまま姿を現す。
彼女 いまのお話、よく聞こえなかったわ。
あたしがどうしたっていうの?
多田 (振り返って)いや、それがねえ……。
彼 (怒りを込めて)おい、そんな目で見るのはよせッ!
多田 えっ?
彼 そんな話は聞きたくないんだ。
早く帰ってくれよ。
多田 しかしだな……。
彼 帰れったら、帰るんだ。
多田 案外、頭が固い男だなあ。
なあ、みんな、どう思う? ほかの話とはわけが違うじゃないか。
いつまでもこんなふうにしていたら、本当に食べていけなくなるのは目に見えているよ……。
奥さんだって、その仕事の方がどんなにいいか……。
彼 うるさい!
奥さんだのなんだのって、君がそんなことに首を突っ込む必要はないんだ。
小森 話し方の順序が逆になっちゃったな。
阿部 最初にそう言えばよかったんだよ。
多田 そんなに怒るなら、もう帰るよ。

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