一人でどこへでもいらっしゃいと言う。
まあともかくもと美代がすかしなだめて、やっと出かける事になる。
実にいい天気だ。
「人間の心が蒸発して霞になりそうな日だね」と言ったら、一間ばかりあとを雪駄を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エヽと気のない返事をして無理に笑顔をこしらえる。
この時始めて気がついたが、なるほど腹の帯の所が人並みよりだいぶ大きい。
あるき方がよほど変だ。
それでも当人は平気でくっついて来る。
美代と二人でよこせばよかったと思いながら、無言で歩調を早める。
植物園の門をはいってまっすぐに広いたらたら坂を上って左に折れる。
穏やかな日光が広い園にいっぱいになって、花も緑もない地盤はさながら眠ったようである。
温室の白塗りがキラキラするようでその前に二三人ふところ手をして窓から中をのぞく人影が見えるばかり、噴水も出ていぬ。
睡蓮もまだつめたい泥の底に真夏の雲の影を待っている。
温室の中からガタガタと下駄の音を立てて、田舎のばあさんたちが四五人、きつねにつままれたような顔をして出て来る。
余らはこれと入れちがってはいる。
活力の満ちた、しめっぽい熱帯の空気が鼻のあなから脳を襲う。
椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつもりだろうといつも思うのであるが、きょうもそう思う。
ハワイという国には肺病が皆無だことだれかの言った事を思い出す。
妻は濃緑に朱の斑点のはいった草の葉をいじっているから「オイよせ、毒かもしれない」と言ったら、あわてて放して、いやな顔をして指先を見つめてちょっとかいでみる。
左右の回廊にはところどころ赤い花が咲いて、その中からのんきそうな人の顔もあちこちに見える。
妻はなんだか気分が悪くなったと言う。
顔色はたいして悪くもない。
急になま暖かい所へはいったためだろう。
早く外へ出たほうがよい、おれはも少し見て行くからと言ったら、ちょっとためらったが、おとなしく出て行った。
あかい花だけ見てすぐ出るつもりでいたら、人と人との間へはさまって、ちょっと出そこなって、やっと出て見ると妻はそこにはいぬ。
どこへ行ったかと見回すと、はるか向こうの東屋のベンチへ力なさそうにもたれたまま、こっちを見て笑っていた。
園の静けさは前に変わらぬ。
日光の目に見えぬ力で地上のすべての活動をそっとおさえつけてあるように見える。
気分はすっかりよくなったと言うから、もうそろそろ帰ろうかと言うと、少し驚いたように余の顔を見つめていたが、せっかく来たから、もう少し、池のほうへでも行ってみましょうと言う。
それもそうだとそっちへ向く。
崖をおりかかると下から大学生が二三人、黄色い声でアリストートルがどうしたとかいうような事を議論しながら上って来る。
池の小島の東屋に、三十ぐらいのめがねをかけた品のいい細君が、海軍服の男の子と小さい女の子を遊ばせている。
海軍服は小石を拾っては氷の上をすべらせて快い音を立てている。
ベンチの上にはしわくちゃの半紙が広げられて、その上にカステラの大きな切れがのっている。
「あんな女の子がほしいわねえ」と妻がいつにない事を言う。
出口のほうへと崖の下をあるく。
なんの見るものもない。
後ろで妻が「おや、どんぐりが」と不意に大きな声をして、道わきの落ち葉の中へはいって行く。
なるほど、落ち葉に交じって無数のどんぐりが、凍てた崖下の土にころがっている。
妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。
見るまに左の手のひらにいっぱいになる。
余も一つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラところがって向こう側へ落ちる。
妻は帯の間からハンケチを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。
「もう大概にしないか、ばかだな」と言ってみたが、なかなかやめそうもないから便所へはいる。
出て見るとまだ拾っている。
「いったいそんなに拾って、どうしようと言うのだ」と聞くと、おもしろそうに笑いながら、「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と言う。ハンケチいっぱいにどんぐりを拾い集めて包み、大事そうに結んでいるから、もうこれで終わりかと思ったら、今度は「あなたの日よけのハンケチも貸してちょうだい」と言う。
とうとう私のハンケチにも何合分ものどんぐりをパンパンに詰めて、「もうおしまいにして、おうちに帰りましょう」と、どこまでもマイペースなことを言う。
……あのとき、あんなふうにどんぐりを拾って喜んでいた妻は、もうこの世にはいない。
お墓の土には、苔の花が何度も咲いては散った。
山には今年もどんぐりが落ち、ヒヨドリの鳴き声とともに枯れ葉がラッパのように降ってくる。
今年の二月、数え年で六つになる忘れ形身のみつ坊を連れて、この植物園へ遊びにやって来て、昔と同じようにどんぐりを拾わせてみた。
こんな些細なことにまで血筋というか遺伝というものがあるものなのか、みつ坊はものすごく夢中になって面白がった。
五つ六つ拾うたびに、息をゼーゼーはずませながら私のそばへと飛んできて、私の帽子の中に広げたハンケチの中へとドサリと投げ込む。
だんだん宝物が増えていく様子を覗き込みながら、頬を赤くして、嬉しそうにとろけそうな顔をする。
隠しようのない母親の面影が、この無邪気な顔のどこかの隅からちらりと覗いて、薄れかけていた昔の思い出を呼び起こさせる。
「おとうさん、大きなどんぐりだよ! こいつも、こいつも、こいつも、こいつらも、みんな大きなどんぐりだよ!」
小さな泥だらけの指先で、帽子の中にゴロゴロと積み重なったどんぐりの頭を、一つ一つツンツンと突っつく。
「大きなどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃんだ!」
と、出まかせの歌のようなものを楽しそうに歌いながら、ピョンピョンと跳ね回りながら、またどんぐり集めを始める。
私はその罪のない横顔をじっと見つめながら、亡き妻のあらゆる短所や長所、どんぐりが好きだったことや、折り鶴が上手だったこと、そんなものはいくら遺伝してくれても構わないけれど、始まりと終わりのあまりにも悲惨だった母親の運命だけは、この可愛い我が子には絶対に繰り返させたくないものだと、心からそう強く思ったのだった。
(明治三十八年四月、『ホトトギス』)
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