初級翻訳・アグニの神 第3話

アグニの神

実際に、目の前の香炉の火や、インド人のおばあさんの姿でさえ、まるで気味の悪い夢が消えていくように、あっという間に見えなくなってしまいました。
「アグニの神様、アグニの神様、どうか私の言うことを聞いてください!」
やがてあの魔法使いが、床(ゆか)の上にひれ伏したまま、しわがれた声を上げた時には、妙子は椅子に座りながら、ほとんど生きているのか死んでいるのかもわからないくらい、いつの間にかぐっすり眠り込んでいました。

五

妙子はもちろんでしたが、おばあさんも、この魔法を使う場所は誰の目にも触れないと、思っていたに違いありません。しかし実際は、部屋の外に、もう一人、ドアの鍵穴(かぎあな)から中の様子をのぞいている男がいたのです。それは一体誰だと思いますか?――言うまでもなく、書生(しょせい)の遠藤(えんどう)でした。遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は道に立ち止まったまま、夜明けを待とうかとも考えました。けれど、お嬢さんのことを考えると、どうしてもじっとしていられませんでした。そこで遠藤は、ついに泥棒(どろぼう)のように、そっと家の中に忍び込むと、すぐにこの二階のドアの入り口まで来て、さっきからこっそり中をのぞいていたのです。でも、こっそり中をのぞくと言っても、なんと言っても鍵穴(かぎあな)から見るのですから、青白い香炉(こうろ)の火の光を浴びた、まるで死人のような妙子の顔が、やっと真正面に見えるだけでした。それ以外は、机も、魔法の本も、床(ゆか)にひれ伏したおばあさんの姿も、まるで遠藤の目には入ってきませんでした。けれど、しわがれたおばあさんの声は、まるで目の前で話しているかのように、はっきりと聞こえました。
「アグニの神様、アグニの神様、どうか私の言うことを聞いてください!おばあさんがそう言ったかと思うと、息もせず座っていた妙子が、目を閉じたまま、突然口を利き始めました。
しかもその声は、どう聞いても妙子のような少女の声ではなく、荒々しい男の声だったのです。
「いや、おれはお前の願いなど聞かない。
お前はおれの言いつけに背いて、これまで悪いことばかりしてきたな。
おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。
いや、それどころか、お前の悪事に対して罰を下してやろう」

おばあさんは、あまりのことに言葉を失ったのでしょう。
しばらくは何の返事もできず、ヒューヒューと荒い息を吐くだけでした。
しかし、妙子はそんなおばあさんを気にも留めず、厳かに話し続けます。
「お前は、哀れな父親の手からこの女の子を盗んできた。
もし命が惜しいのなら、明日を待たず、今すぐこの子を返しなさい」

遠藤は鍵穴に目を当てたまま、おばあさんの返事を待っていました。
するとおばあさんは、驚くどころか、憎たらしい笑い声を漏らしながら、急に妙子の前へ立ち上がりました。
「人を馬鹿にするのもいい加減におし!
お前は私を何だと思っているんだい。
私はまだ、お前なんかに騙されるほどボケてはいないよ。
『すぐにお前を父親へ返せ』だって?……警察の役人でもあるまいし、アグニの神様がそんなことをお命じになるはずがないだろう!」

おばあさんはどこからか取り出すと、目を閉じたままの妙子の顔の先へ、鋭いナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状しな。
お前は恐れ多くも、アグニの神様の声色を使って私を騙そうとしたんだろう?」

さっきから様子をうかがっていても、妙子が本当に眠っているのかどうか、遠藤には分かりません。
ですから遠藤はこれを見て、「しまった、作戦がバレてしまったか!」と、心臓が飛び出しそうになりました。
しかし、妙子は相変わらずまぶた一つ動かさず、嘲笑うかのように言い返します。
「お前も、死ぬ時が近づいたな。
おれの声がお前には人間の声に聞こえるのか?
おれの声は低く聞こえても、天上に燃え上がる炎の声だ。
それがお前には分からないのか。
分からないのなら、好きにするがいい。
おれはただ、お前に尋ねているのだ。
すぐにこの女の子を送り帰すか、それともおれの言いつけに背くか――」

おばあさんは少しだけ迷ったようでした。
しかし、すぐに勇気を振り絞ると、片手にナイフを振りかざしながら、もう片方の手で妙子の髪の毛を掴み、ずるずると自分の方へ引き寄せました。
「この小娘め!
まだ強情を張る気かい。
よし、分かったよ。それなら約束通り、一思いに命を奪ってやる!」

おばあさんがナイフを振り上げました。
あと一分でも遅れれば、妙子の命はありません。
遠藤はとっさに身を起こすと、鍵のかかった入り口のドアを力任せに開けようとしました。
しかし、ドアは簡単には壊れません。
いくら押しても、叩いても、手の皮がむけて血が出るばかりです。

六

その時、部屋の中から誰かの叫び声が、突然暗闇に響きました。
続いて、誰かが床にバタリと倒れる音も聞こえたようです。
遠藤は狂ったように妙子の名前を呼びながら、全身の力を肩に込めて、何度も入り口のドアに体当たりをしました。
板が裂ける音、錠前が弾け飛ぶ音――ついにドアが破れました。
しかし、肝心の部屋の中は、香炉の青白い火がメラメラと燃えているだけで、誰もいないかのように静まり返っていました。
遠藤はその光を頼りに、恐る恐るあたりを見回しました。
するとすぐに目に飛び込んできたのは、やはり椅子に座ったままの、死人のように静かな妙子の姿でした。
なぜか遠藤には、その妙子の頭に光が差しているようで、とても神聖な雰囲気を感じました。

「お嬢さん、お嬢さん!」
遠藤は椅子のそばに駆け寄ると、妙子の耳元で一生懸命に呼びかけました。
しかし、妙子は目を閉じたままで、口を開こうとしません。
「お嬢さん、しっかりしてください! 遠藤です!」

妙子は、ようやく夢から覚めたように、かすかに目を開きました。
「……遠藤さん?」
「そうです、遠藤です! もう大丈夫ですから、安心してください。さあ、早く逃げましょう!」

妙子はまだ夢と現実の境目にいるのか、弱々しい声で言いました。
「作戦は失敗しちゃったわ。私、うっかり眠ってしまったから……ごめんなさいね」
「作戦がバレたのはあなたのせいじゃありませんよ! あなたは私と約束した通り、アグニの神様が乗り移ったふりを最後までやり遂げたじゃないですか。そんなことはどうだっていいんです。さあ、早く逃げてください!」

遠藤はもどかしそうに、椅子から妙子を抱き上げました。
「いいえ、嘘よ。私は眠ってしまったんだもの。自分がどんなことを言ったのかさえ、分からないわ」
妙子は遠藤の胸に寄りかかりながら、つぶやくように言いました。
「作戦は失敗よ。私はもう、ここからは逃げられないわ」
「そんなことがあるものですか。私と一緒に来るんです。今度失敗したら大変なことになるんですよ!」「だって、おばあさんがいるでしょう?」
「おばあさん……」

遠藤はもう一度、部屋の中を見回しました。
机の上にはさっきと同じように、魔法の書物が開かれています。そして、その下へ仰向けに倒れているのは、あのインド人のおばあさんです。

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